怒りを感じる

職場で同僚のAさんに対し怒りを感じたことについて書いてみたいと思います。

ただの愚痴になっている部分もあるかもしれませんm(__)m

Aさんは立場上、私の上司にあたる方ですが、職場には私の方が少し古くからいます。

依頼元から請け負った仕事について、Aさんと今後の予定を立てるために話し合いをしました。
依頼元からはゆっくり進められる納期を頂いているのに、Aさんはなぜか急いで仕上げて、納期を早くしたがっていました。
しかしAさんにはその仕事についての具体的な企画・アイデアがあまり無く、業務をどう進めたらよいかわからないようで、私からの提案にも何も決断できない状態でした。

話していてどうにも埒があかず、言い訳ばかりするような内容に感じられた私は、次第に苛立ってしまい、声こそ荒げなかったですが、平穏とは言えない雰囲気と口調になっていたと思います。
そしてAさんは「もう私は手を引きます」と話し合いを打ち切りました。私がAさんを追い詰めたような空気でした。

その後、Aさんに対して怒りがこみ上げてきました。
これは以前からのことですが、Aさんが決められず時間が過ぎ、最終的に私に仕事が来るということが度々あって、私は不満を抱いていました。

休憩時間にその怒りをしばらくじっと感じてみました。
そして、これは怒りであり、罪悪感の投影を正当化するための試みだと『奇跡講座入門』(p.81)のことが思い浮かびました。

そして赦しのステップを踏もうと、理論を当てはめてみようとします。
この罪悪感の本当の原因は心の中にある…神からの分離を信じたことにまつわる罪悪感が、抑圧され投影されて、一体となった自我の目的に役立っている…。いくつか思いついたものを繰り返しました。
しかし、こうした理論は動揺の最中にあるときはいつも空虚に思えてしまいます。
私は平安であることより、正しくあることを選んでいる、と思いました。

怒りは収まりませんでした。
ただ、こうして私がAさんに怒りを投影しても、それは罪ではない、何かの誤りではあるかしれないが、神の愛は破壊されず、私もAさんも罪人ではない、とだけ考えて休憩室を後にしました。

その後私の退勤まで、Aさんとは仕事上必要な言葉を少し交わすものの、視線を合わさず避けられているようでした。

休憩時間にAさんからリーダーに話が行き、即断即決主義のリーダーから、短い納期でその仕事の最も手間のかかる部分が私に任されました。
私もリーダーに判断を任せることには了承していたので、その仕事を引き受けました。

家に帰り、家族にそのことを話しながらことの順序を整理していると、更に怒りがこみ上げ、自分がいかに被害者で、Aさんをひどい人間だと思っているかが自覚されてきました。殺意といっていいほど強い怒りを抱きました。

家族とは、「自分だけが我慢してやることはないよ、リーダーに相談しよう」とも話し、また「任された仕事を淡々と文句を言わずにやるのが、きれいな生き方だと思うよ、見ている人は見ているよ」とも話しました。

私は自室で一人、怒りを見つめました、怒りで頭がくらくらするようでした、赦しをしようと心の中で何かを思い出そうとしていると、仕事の疲れから眠くなり、支離滅裂な考えが浮かんできたので、声を出しました。

「私は今怒りを感じている。Aさんが私の怒りの、殺意の、苦しみの原因のように見えている。もしそれが真実ならば私にできることはない。私は世界の被害者である肉体をもつ一人の個人であり、救われるには原因であるAさんが、世界が変わるしかないが、それはどうにもならない。」

「もし私が、自覚はないのだが…心の中で何かを選択した結果、その必然的な帰結の末に、Aさんに怒りを抱いているのだとしたら、もしそうなら、私にできることがあるかもしない。どちらを選んでもいいが、私にこの苦しみから抜け出せない選択をする理由があるのだろうか。」

「もし私が覚えていない決断を変えるのなら、そんな不可能に思えることができるのなら、その助けが私の心の中にあるに違いない。聖霊よ、イエスよ、どうか、私を助けて下さい。私にはどうしたらよいのかわかりません…」
そう懇願するように語りかけると、わずかに鳥肌が立ち、片目から涙が少しだけ流れました。
続けてしばらく語りかけていましたが、少しだけすっきりしました。
学習が浅い私には、少しでも赦せたのか、涙のせいなのかよくわかりませんでした。

その後食事中に、徐々に怒りが再びこみ上げてきました。
これは何なのだろうと見ていると、頭の中で今日の出来事が思い返され、Aさんへの怒りが出てくるようでした。
この世界の中では、私は被害者に完璧に論理的に正しくなれると感じました。
この世界の、私の頭脳の中の価値判断によると、私は怒って当然だと思われるのです。

私はいつもの自分にすぐに舞い戻ってしまいました。
私は平安であることより、正しくあることを選んでいる、と再び思いました。

私が日ごろから親しんでしまっている不安の数々も姿を見せてきました。
私がこの世界で普通に生きているというのは、常に誤った選択をし続けていて、自分を苦しめているのかもしれないと思いました。

また、私がこの世界でのやり方を信じているときには、救いの道はないと思いました。
一人の肉体である私が助かるためには、相手が死ぬか、私が死ぬか、私がいつもやってきたように私の肉体を心地よくしてくれる何かに没頭して、それを忘れる、なかったことにする、抑圧するしかないことになります。抑圧すればそれはまた必然的に投影されるのでしょう。

何か別の道がある、何か別の見方がある、それを学びたいとほんの少しだけ意欲が足された気がします。
そして私が気付かなくてはいけないのは、平安の体験を求めるというより、どれだけ自分の当然だと思っている選択が、自分に苦しみをもたらしているのかを自覚できるように学んでいくのかなと思いました。

今の私の理解の範囲での目一杯の赦しの記録でした。

(2022年7月 by yukihide)