些細なことでも、イエスに助けを求める?
『天国から離れて』に出てくるヘレンさんとまつげのエピソードを読んで、先日、自分が栗を剥いていて手を切ったときのことを思い出しました。あのとき、私は、すぐに傷口を押さえる、ということをしましたが、イエスに助けを求めるという発想はまるでなかったと気がつきました。
ですが、一瞬、あのような些細なことにもイエスの助けを求めるの…?という考えが浮かびました。自分が対処法を知っていることなのに、助けを求める必要ってある…?イエスに助けを求めたからといって、傷口がふさがるわけではないでしょう、というような気持ちでした。
ヘレンさんのあのエピソードは、「イエスに助けを求める」と言っても、イエスになんとかしてもらうということではなく、ヘレンさん自身が、それまで遠ざかっていたイエスの愛と光に近づいたことで、まつげが自動的に移動した、ということを言っているのだと思いますが、私にはそのようなことは無理だと思いました。
でも、私が栗を剥いていて手を切ったということも、神から離れるという決断が表現されたものだということは明らかです。動揺しましたし、次々といろんなイメージが浮かびました。まるで心を忘れるためにそのイメージを強化しようとしているようでした。
だから、このことについてもヘレンさんのまつげの件と同じように考えてもいいのだ・・・、そう気がつきました。私はまだ、ヘレンさんのまつげの件を特別なことであり自分は除外されていることだと感じていたのでした。
私が普段しているすべてのことが、本当は神から離れるという決断を表現しているものならば、それについての唯一の答えは、神の助けを求める(orイエスや聖霊の助けを求める)ということでしかありえないのだと思いました。
こうしたことについて考えているうちに思い出したことがあります。
いつ頃までのことだったか覚えていないのですが、イライラしながら仕事や家事をしていたことがありました。共働きなのに、私ばかりが家事をしていて、夫も手伝ってはくれるけれど割合としては私の方が多すぎるとか、子供たちも自分から積極的にしないとか…思っていました。そして、そういう自分の苛立ちの理由のようなものはすぐに見つかるので、夫や子供にそれを伝えるなど具体的に対処することが苛立ちの解決策として有効だと思っていました。
ですが、心の中を見るということについて練習を続けてきたことで、状況はそれまでとそう変わっていないのに、今では、あの頃に感じていた激しい憤りのようなものは無くなってきているように思われます。これは、心の中に戻り、正しい心を選択しようと試みることで一瞬でも静かになり、神の愛へと戻ることができていたからなのか? 自分が神の愛に近づこうと試みることで、神から離れるという決断をしたという原因が、取り消されているからなのか?
いずれにしても、日頃から、些細なこと、当たり前のこととして片付けている出来事のすべてに、まずはイエスの助けを求めようとする姿勢を持つようにしていきたいと思いました。
(2022年10月 by ひょうたん)

