大したことのないこと(本人はいたって真剣)
私は周りから見ると大したことのない、自分でも後から振り返るとしょうもないと思えることで日々悩んでしまいます。つまりものごとを大げさに、深刻にとらえてしまうということですが、最近の例では…
・職場の同僚からに遊びに誘われた(どう断ればいい?)
・毎年健康診断を受診している病院がなぜか今年は受付をしていない
・インターネットプロバイダを変更するがどれを選んだらいい?(わずかな損得がすごく気になる)
・腰や足首、股関節が少し痛いのが続いてる(派手に転倒して怪我をした場合はむしろ悩まない)
読まれた方は何でこんなことで悩むんだと思われるでしょうが、私もこれを書いていて思います(笑)
ですが悩んでいる最中には結構真剣に苦しんでいたりします。そしてこうした状態にあるときに赦しの実践をしようとはなかなか思えなかったりします。
私の場合自分の感情・考えを意識的に観察しようと心がけていない場合に、どんどん悩みのデパートに入って行ってしまうようです。
どうにも苦しさがピークになってようやく赦しの実践を自分なりに真剣にやったりします。
こうしたことを繰り返していくと、自らが心配事を探して不安になり、そしてそれにしがみついているというパターンがようやく自分自身にも見えてきます。悩みの最中になかなかそれを認められませんが…。
テキストを“深刻”で検索した箇所からの引用です。
罪悪を手放さずに自分の外に追い出すことによって自分の無垢性を保とうとする拙速な計略は、なんと子供じみたものだろう! あなたの目が周囲に見るものが、些細な原因から離れたゆゆしき結果だけであるというときに、その滑稽さを知覚するのは容易ではない。原因を抜きにすれば、実際その結果は深刻で悲しいものに見える。
(T-27.VIII.8:3-5)
救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」ということだけである。攻撃の形の如何にかかわらず、依然としてこれが真実である。敵や攻撃の役割を誰が担っていようと、依然としてこれが真理である。何があなたが感じている苦痛や苦しみの原因に見えようと、依然としてこれが真実である。
(T-27.VIII.10:1-4)
段落9は聖霊と共に心の原因に戻る表現にすごく優しさを感じます。
聖霊はあなたに、それぞれの恐ろしい結果を聖霊のもとにもってくるようにと告げる。それにより、一緒にそのばかげた原因を見て、共に少しの間笑うことができるようにする。
(T-27.VIII.9:3)
段落7は意味をどうにも掴めないところがありましたが、『読書百遍、意、自ずから通ず』で、焦らず学んでいきたいです。

