私の感じた不安

前回の投稿後、穏やかさの中で心地よく過ごしていましたが、その翌日か翌々日か、何かが間違っているような不安が現れました。

投稿していたおかげで、自分が赦しで何を見ていたのか、文字になっていなくても自分にはわかる文字の向こう側の風景を確かめる事ができました。

心の奥にある恐れを直視している時の強い葛藤は「神への恐れ、自分の作り上げたものが奪われる恐れ、自分の犯した(と信じている)罪に対する罪悪感」に苛まれていますが、その恐れで隠した「分離を信じた誤り」を認めて、聖霊に心を寄せるとき、感謝と共に静かに静かに満たされた自由な感覚に包まれていました。

この穏やかさは、聖霊を拒んでいる時の静かに勝ち誇っているかのように感じていた落ち着きとは、全く違うということもはっきりわかるものですが、何度見つめても、この「静かに静かに満たされた自由な感覚」はそこにあるのですが、何かが間違っているような不安がついて回るのです。

「何がおかしいのだろう?」と、パラパラと「祈りの歌」に目を通していました。

を記憶にとどめていながら、の創造したものを憎むことなどできるだろうか。もしあなたが神の愛する子を憎むなら、あなたは彼のをも憎むことになる。なぜなら、あなたは自分が神の子を見る通りに自分自身を見るのであり、あなたにとってのは、あなたが自分自身を見る通りのものだからである。(S-2.I.3:8-10)

この箇所の下線を引いたところがとても響いてきて、自我の声を聞いていると気づけました。

「決断のためのルール」の講義室の時も、赦しの後に当惑した事がありましたが、その感覚とも似ているので、これが「自我の防衛」によるものだということがすぐにわかりました。

私が感じた不安は、自我の視点からのもので、今まで自我の思考に慣れ親しんできた「自我と共にいる私」にとって、心の中を見て「誤り」を手放すなんて奇行そのものであり、やめさせなければならないことなので、「そんなことするのは間違っているのでは?」と、自我が先に語ってきたのだと合点がいきました。

それから、このような当惑した状態の中でも、受け取っていた「平安」は揺るがず私の中にはっきりと残っているという経験も積み重ねられ、以下のテキスト(教義)の内容がより染み込んできました。

肉体の耳で聞くことの反対は、神を代弁する声を介した親交(コミュニケーション)であり、そのである聖霊は、私たち一人ひとりの内に宿っている。そのはか細くて聞き取りにくいもののように思われているが、その理由は、卑小な分離した自己を代弁する自我の声のほうがずっと大きいかのように感じられるからである。これは実際には逆である。聖霊は間違えようのない明瞭さと、圧倒的な魅力をもって語る。

(『奇跡講座』教義より)※下線はシャンティによります。

(2022年8月byシャンティ)