仕事中の赦しについて
仕事中の赦しについて、ちょっと整理しておこうと思いました。
こんな感じでいいものかまったくわからないし、歪曲して書いている可能性もある。でも、もっと正確に記そうとするとさらに歪曲が入りこみそうな気がするので、さっと書いておこう。
自分の反応をみるとき、「開く方向か、閉じる方向か」「包含の方向か、除外の方向か」「ひとつである方向か、分離する方向か」「つながっている方向か、個別である方向か」「同じだとみる方向か、違いをみる方向か」「ともに行こうという方向か、私だけという方向か」を注意して感じるようにしている。
また、何かにフッと反応した時、それを嫌なものか好ましいものか無意識に瞬時に解釈判断し、その反応を固定化(観念化?物質化?)して、その固定化されたものを自分の反応と思ってしまわないように気を付けるようにしている。
それはすでに判断され固定化された観念なので、それをどうこうしようとすればするほどそれを強固にしてしまうから。
フッと出てきたらサッと感じ取り、聖霊とのつながりを思い、判断してもらう。
それができず、反応を固定化(観念化)してしまったことに気付くと、いったんその反応そのものに戻り、そこに飛び込み、感じ切ろうとする。
そうすると、例えば「苛立ち」と思っていた反応の裏に、「悲しみ」を感じ、更に奥に「愛情」のようなものを感じる。
そして、聖霊とのつながりを思い、助けを求める。さらに、その「愛情」の向こうにある狂気のようなものを感じ取れればいいのかもしれないが、仕事中はそこまで行けない。
だから、聖霊の手をとったまま、流動化した反応をみながら「これを私から取り上げ、それを見て、代わりに判断してください。[T19.IV.C.11:8]」と思う。
反応をみながら「私はこの世界に愛着を感じており、神の愛を恐れている。でも、それでもいい。」で終えることもある。
瞬時にできることもあれば、数秒かかることもある。数分かけられる場合もある。フッと思うだけのこともあれば、言葉を思い浮かべることもある。反応の固定化に気付かず、通りすぎ、振り返って気付くこともある。
「悲しみ」の奥に感じる「愛情」のようなものを神の愛の反映だと思っていたこともあったのだが、それは違うような気もする。それは、この世界に対するとてつもない愛着だという気がする。その奥に「すべては俺のものだ!」という思いが隠されていたから。さらにその裏にとてつもない狂気のようなものが隠されていたから。でもよくわからない。今はわからなくてもいいのかもしれない。
私の場合、仕事中の赦しは、ステップ1がメインで、ステップ2はときおりかすっているだけなのかもしれない。
「悲しみ」や「愛情」のようなものの奥にあるとてつもない狂気に触れるほどのことはめったにないから。
それでも、反応の固定化に気付き、戻って飛び込み、感じ切ろうとし、その奥に「悲しみ」や「愛情」のようなものを感じ、流動化させるだけでも、自我の締め付けの手はかなりゆるくなるように思う。
仕事中は赦しの教室にいることが多いのだが、夕方家にいるときや、たまの休みに家族と出かけるときは、いつのまにか父親の役を果たすことが中心となり、自我のレッスンにはまり込んでいることがかなり多い。
ということで、私はまだまだ「赦し」を「お仕事」と思っているということなんだろう。
ここ最近の赦しをまとめてみただけで、これをもとに赦しを続けるというわけではない。むしろ反対に、ここ最近の赦しの経験と決別するために書いた気がする。
私が経験によって何かを得たと思わないようにしよう。導きはあくまで聖霊のみ。
私には、これを含むあらゆることが、何を意味しているのかわからない。そして、それに対してどう応答すべきかもわからない。だから私は、自分の過去の学びを、今、自分を導く光として用いることはしない。[T-14.XI.6:7-9]
自分が何も知らないということを常に覚えており、一切を学ぼうとする意欲をもつようになった者は、それを学ぶだろう。しかし、自分自身に頼るとき、彼らは学ばないだろう。[T-14. XI.12:1-2]
( 2019年10月 by pallaksch)

