祭壇を意識する
私の「祭壇」のイメージをお話ししようと思います。
長い間わからなかったビジョンの意味がわかったように感じた時、
今まで特に意識を向けることがなかった「祭壇」に、私の中でパッとスポットが当たったのです。
救済とは取り消しである。それは、何もしないことにより、夢と悪意の世界が維持されずに消えていくという意味で、取り消しである。そのようにして、救済は幻想を去らせる。幻想を維持しないことで、それらがただ静かに塵と消えるままにする。そうすれば幻想が隠していたものが顕わになる。それは聖なる神の名に捧げられた祭壇であり、そこには神の言葉が書き込まれている。その前にはあなたの赦しの贈り物が供えられ、そのすぐうしろには神についての記憶が控えている。[W–pⅡ.2.3]
ここの部分を読んだ時です。
そうだ、私はここに意識を向けていればいいんだ、と思ったのです。
これまでは起こった出来事に対しあれこれ考え続け、
相手を責めたり自分を責めたり、自分の感情をのせて幻想に力を与えることを沢山してきたけれど、
幻想に力を与えることはやめて、ただ見ればいいんだ、と。
祭壇には私が取組んだ赦しの贈り物が供えれるんだ、と思ったら
それはなんて素晴らしいことなんだろう、私はそれをしたい、と
意識を持っていく(焦点を当てる)場所が定まったように感じました。
職場での話ですが、
スタッフをまとめている立場の人が、最近新人さんにキツい態度で注意するようになり、
その言い方が嫌な感じだなぁ、と思っていました。
今後の仕事のことを考えて、焦りもあるのだろう、と気持ちはわかるけど、
新人さんが気の毒に感じられました。
特に私と年齢が近いパートの人は、あたふたしている様子が何だか以前の私を見ているようで…
20代の常勤の子は、注意されてもそれ程気にしている感じではないのですが。
そんな状態が少し続いて、イライラした感じで注意をするその人の非難が
直接ではないけれど私にも向いたように感じられた時、
私は心の中でその人を非難し始めました。
その時にすぐ「祭壇」を思い出したのでした。
ああ、そうだった。
私は幻想を維持しないで、それをただ見ればいいんだった。
こうやって起こった(ように見える)ことに対し、考えを巡らせて
人を非難したり自分の正しさを主張しようとすることは、自我に力を与えることだった。
私はそれを続けるのか?
それとも「祭壇」に赦しの贈り物を供えるのか?
そう考えた時、私は「祭壇」の方がいい!と思ったのです。
「祭壇」に私が供えた贈り物が沢山並んでいくことを考えたら
そちらの方が断然魅力的でした。
私はイエスと共にいることを選ぶ。
この世界での私の正しさなんて、どうでもいいことだ、と感じました。
彼女だって苦しんでいることでは同じなんだ。
私の意識を向ける場所がスッと変わって気持ちが落ち着き、
優しい気持ちで彼女を見ることができるようになりました。
そして同じ仲間として感じられました。
この時もうひとつ気がついたのが
以前の私のように見えるパートさんに対し
感情の部分で一体化する、というような共感の仕方はしてはいけないんだな、ということです。
それでは自我と自我がつながってそれを強化することになる。
自我を越えた部分でつながっていることを信じればいいのだと思いました。
「祭壇」を意識することで
私の場合は赦しがしやすくなったと感じています。
その体験をシェアしたいと思って書きました。
( 2019年11月 by たんぽぽ )

