「原因についてのコース」〜『奇跡講座』の概説〜 を読んで

以前私は、「赦しの結果がこの世界の中でどのように表れるのかということについて」とても興味がありました。
「嫌いな人を赦したらその人が転勤になった」や
「欠乏感を赦したら臨時収入があった」などといった形態での変化を赦しの結果の表れだとして一喜一憂していました。

その後、形態と内容の違いについて意識するようになり、外側の変化より、内側の変化の方に関心がいくようになり
「嫌いだった人のことが気にならなくなってきた」とか
「状況は変わらないのにお金に対する不安がなくなってきた」などという気持ちの変化について観察するようになりました。

しかし、以下のところを読んで

ですから、私たちは、赦しの結果がこの世界の中でどのように表れるのかということについては、それを解明しようとしたり、結果が表れるのを見届けようとしたりはしなくていいのです。それよりも、「それは、私たちにはわからない」と認めることのほうが、重要です。

「原因についてのコース」P103

自分の気持ちを観察して、赦しの結果に良し悪しをつけることは
結果が表れるのを見届けようとしているのではないだろうか?と思えてきて、

また、それと同時に、赦しの結果について、「赦したらこうなるはずだ」「赦したらこうなってほしい」と自分が期待しているイメージがあることに気がつきました。

例えば、「赦しが進むとどんなことがあっても動揺せずに穏やかに微笑んでいられるはずだ」とか
「赦しを実践している私がここにいるだけで、周りのみんなが癒されていく」というようなことです。

そしてそれは、自分が抱いているイエスのイメージでもありました。
赦しが進めばイエスのようになれるはずだという思いは、イメージ通りの赦しの結果への期待でもあり、それができなければ罪悪感を感じ自分を責めていました。

このように私が赦しの結果をあらかじめイメージすることは、赦しの実践のようにみせかけた自我の思考であり、すでに教師の席が埋まっているので(自我が座っているので)、聖霊に教えてもらえない、つまり聖霊の思考体系が入ってこれないのではないかと思えてきました。

そしてこのイエスのようになることに対する期待は自分にだけでなく、他者へも向けられ、「あの人は動揺しているから〈正しい心〉を選んでいない」というような「赦しが進んでいる人はきっとこう(例えば菩薩や聖人のよう)であるに違いない」といった勝手な期待(または判断基準)となっていました。

そうでないと、他人を見て、「あの人の生活はうまくいってないから、ちゃんと赦しをしていないのだろうとか、ちゃんと『奇跡講座』を実践していないのだろう」というようなことが言えることになってしまいます。でも、実際には、そういうことは、誰にもわからないのです。個人の視点からは、誰にもわからない、というところを受け入れなければなりません。

「原因についてのコース」

「個人の視点からは、誰にもわからない、というところを受け入れる」

「「それは、私たちにはわからない」と認めることのほうが、重要」

私たちには、赦しの結果はわからない
赦しの結果を、待ちきれずに先走って自ら感じ取ろうとするならば、聖霊を自我の範疇に引き入れようとしているということなのではないか?すでに教師の席に自我を座らせているのではないか?と思いました。

聖性の延長については、あなたが心配するにはおよばない。奇跡の本質は、あなたに理解できるものではないからである。また、あなた自身が奇跡を行うわけでもない。あなたが知覚する限界をはるかに超えて奇跡が延長していくという事実が、奇跡を行うのがあなたではないことを実証している。あなたは奇跡そのものを理解していないというのに、奇跡がどのようにして一なる子の全体にまで延長していくのかと、心配すべき理由があるだろうか。

(Tー16.Ⅱ.1:3ー6)

赦しの結果が、必ず自分の目に見える形で表現されるはずだということにこだわると、確実に、心から世界へ逆戻りしてしまいます。ここにおいても、これはあくまでも「心を変えること」を目指しているコースだということを覚えておくことが大切です。

「原因についてのコース」

「心を変えること」を忘れずに、コツコツと自分がなすべきことを行なっていきたいと思いました。

(2019年12月、byアムロ)