学びの「楽しさ」

私は、最初『奇跡講座』ではなくて、「奇跡のコース」という訳本で学び始めました。(10年位前)

そこには、何か重要なことが書いてありそうなことは分かるのですが、読んでいても何が書かれているのかさっぱりわからず、特に「神」とか「父」「聖なる」「王国」という言葉は、何かの比喩やイメージのことなのかな、と思っていました。それに、そのような言葉がレッスンの主題概念に出てくると、嫌な感じがして、居心地が悪かったです。だから、ワークブックのⅡ部は何だかわからないけど不快で「読む」ことさえ困難でした。まるっきり、何にも理解していなかったからですね。

愛犬のまるちゃんが、その「奇跡のコース」をかじってしまって、買い直すときに別の訳で読んでみれば分かるかもしれないと、買い直したのが『奇跡講座』との出会いです。それでも、読むだけでは、到底理解できず、諦めかけていたのです。去年の10月に、ひょんなことから、JACIMサイトを見つけてから、一気に学び始めたという感じです。

だから、私が実践を始めたのも、「このJACIMフォーラムと共に」なのです。学んでいて、楽しいです。何が楽しいのかな・・・と考えてみました。

分からなかったことが、この場で学べる(しかもしっかりと、曖昧にされることなく!!)。分かったふりをしなくても良い。赦していくうえで、思いを吐露しても咎められない。講義を受ければ、直接加藤先生の講義を受けられる(しかも質疑応答あり!)ワプニック先生の教えが得られる!このようなことは、学ぶ上では私にとっては不可欠で、学びを「理解できる楽しさ」がまず圧倒的です。

少しずつだけど、楽になっていくのが、感じられます。いつも罪悪感が体からはみ出そうなくらいに埋め尽くされていて、いつもイライラ、モヤモヤ、じれったく、切なく、鉛のような重い気持ちで、覇気がなく、怠惰で、そのくせおごりがあり、もう自分で自分を持て余していて、そういうことが、気がついたらいつの間にか、少しずつ軽くなっていくのが感じられます。(気がつきます)

また、日常の中で、イライラや、落ち込みや、怒り爆発になった時に、「赦し」があるおかげで、その自我の投影を「教室」にすることを理解しつつあるので、今まではただただ振り回されていたことに「意義」を見出せるようになったので、主体的に向かえるようになり、そのことにも(日々のたくさんのあれこれに)臆せずにいられるようになったことでも、「楽しさ」という表現につながるのかもしれません。

そうした過程の中で、「時々(あるいは頻繁に)イエス先生からの助言だ!!粋な計らいだ!!」と思うことを感じることで(何かが見えるとか、聞こえるわけでもないのですが、昨日もたくさんあったので「ひとりごと」に時間がある時に書いてみたいと思っています)ますます、イエス先生への信頼が少しずつですが重くなって行くことも、「楽しい」という気持に通じるのではないかと思います。

それから、「気づき」「つながり」ということを見つけたときの「わー!!」という喜びも、「楽しさ」に通じるのだと思います。

今までのみじめさや、恨みや、自分の人生に起こったことのすべてを、過去のことも「教室」にできるということが分かったので、ひどく苦しかったすべてを「意味があること」に変換できるということにも、ただ立ち尽くすだけではなくそれを生かせることの救いも「楽になる」ことに通じています。

未来への漠然とした不安にも。

では、反対に『奇跡講座』を学ぶ上での「苦しさ」は?と自分に問うと、

「赦したいのにできない」「どうすれば良いのか、この事例だけは赦しにあてはまらないのではないか?」「赦しても、無駄だ」という気持になったりすることがあることです。


また、このフォーラムで投稿した時に「変なことを書いてしまった」「つじつまが合わない」「気分を損ねられるかもしれないことを書いてしまった。」ということや、講義室で先生からアドバイスを受けた時に「間違いを指摘されてしまう、恥ずかしい」という気持になってしまうことがあることです。

でも、こうして書いてみると、やっぱりそれは「自我を選んでいるからこその気持ち」なので、『奇跡講座』を学ぶ上での「苦しさ」ではなくて、『奇跡講座』に投影する「自我の考えゆえの苦しさ」なのですね。

だから、やっぱり、それを赦していけば、それも楽しさにつながっていくのだろうと思います。

(2020年8月 by maru)