「奇跡の原理」を読んでの感想
書籍「奇跡の原理」のP225〜233を読んだ。自分なりにまとめたり、感想を書こうと思う。
まずP225の最後で、質問者が「アスピリンを飲んだり、その他いわゆる「魔術」が必要な場合もあるのではないか」と尋ねる。この質問に対してワプニック先生は(P226 1行目〜より)
それをやっていけないと言っているのではありません。私が言っているのは、ただ、それであなたの気がすむなら何をやってもかまいませんが、それがあなたが思っている通りの効果をもたらしていると信じてはいけないというだけのことです。
ワプニック先生は続けて(以下DTA要約)
あなたが光の環のヒーリングや、駐車スペースを求めて祈ることが好きなら、それはそれで全然構わない、たイエスは、そうすることであなたが真に望むものを手に入れることはない、そのことだけを言っている。つまり、光の環のヒーリング、駐車スペースのために祈る、そのようなことをしても、「自分が何をしているのかを認識している限り」構わない。ただ、それを行うこと自体は何も悪くないが、それを『奇跡講座』の教えだと信じるなら、それは間違いである。
・・・
この物理的な世界に生きている限り、世界に対する執着をすべて手放せる人など誰もいない。
ここで再び質問者(P229)
「ということは、自分自身を甘やかすこと、ーたとえば魔術的な手段を用いることであろうと、昼寝をすることであろうと、性的快楽に耽ることであろうと、その他の種類の耽溺であろうとーそれが自分のしていることだとわかってさえいれば問題ない、ということだと、私は理解しました。それでも、そのように自分を甘やかしているとき、その都度、間違いを実在させているのではないのですか?」
ワプニック先生の回答(DTA要約)
確かに第一レベルにおいては、間違いを実在させていることになる。けれども、第二レベル(この夢の世界)においては、そうした「耽溺」は、それが本当は自分の望んでいるものではないということを、ゆっくり学んでいく一つの方法ともなりうる。問題は、何かをするとき、それを重大なものにしてしまわないようにすることだ。
再び質問者(P230)
「でも、何か物理的なことをするとき、その度に、間違いを実在するものとしているのですよね。」
ワプニック先生の回答(P230最後〜)
もちろんです!それは避けられません。けれども、それを正当化しようとするときに、あなたはそれをもっと悪いものにしてしまいます。それよりも、「自分はまだこの肉体を持っているし、特定の必要もあると信じているし、自分に愉しみを与えてくれるものごとや、苦痛だから避けたいものごとがあるとも信じている」と認める方がずっと良いのです。私たちに肉体がある限りは、そうしたものごとがありますが、そのこと自体には何の意味もありません。意味のあることは、自分の同僚や家族などを赦すことであり、その関係を真に癒したいと願うことです。(以下略)
ちょっと飛んでP233のワプニック先生の言葉
・・・鍵となるのは、何かが執心の対象となるなら、それが警報だということが言えると思います。つまり、どうしてもこの人と親密な関係になれなければ幸せになれないとか、この特定の食べ物を食べなければ幸せになれないとか、この特定の車を手に入れなければ幸せになれないなどといったことです。こうしたことを達成することが「神の国」となってしまいます。そして、それが不在であれば、地獄となります。この種の罠に嵌っているとき、その形にかかわらず、非常に深く特別な関係に関わっているということを示しています。けれども、肝心な点は、重大でないことを重大にしてしまわないようにすべきだということなのです。この世界における重大なことは罪悪感です。そして、それに対する答えは、赦しです。それが重要なことなのです。
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(以下DTA感想)
私の人生を振り返ってみるに、幼児の頃から今に至るまで、「特別な関係」に埋め尽くされていたと思う。「特別な関係」には「標的」が必要だ。それは私にとっては子供の頃はミニカーコレクションであり、母であり、初恋の女の子であり・・・大人になってからでもCDコレクション、聖書、将棋、仏像、あるいは奇跡講座でさえも特別な関係の標的になっていたと思う。
つまり、全て方向が「外」を向いているのだ。外側の何かに自分の幸せを求めて「耽溺」していたのだ。『奇跡講座』の教えの核心である「内側」にはほとんど目が向かなかった。
けれども、自分で言うのも何だが、最近は、これらの「特別な関係」の標的に対する「執着」や「執心」が少しずつではあるが、薄れてきているとも感じる。つまり、いくら外側に幸せを求めても無駄であると気づいてきた気もするし、「自我の嘘」を見抜けるようになってきた気もする。
将棋や音楽を楽しむ、このことについては何ら問題はなく、むしろその楽しさや美しさに「正しい心の反映」を見て、心の内側に戻る契機とすれば良いだけのことであって、問題は、「これがないと私は我慢できない」という風に「依存」してしまうことの中にこそあるのではないかと思う。
・・・と偉そうなことを書いたが、実際の自分はまだまだで、今日も、先日職場でいただいた珍しいチョコレートが食べたくて、福岡市中を探し回るという愚を犯してしまった。まさにワプニック先生が言われている、「特定の食べ物」を「神の国」としてしまっていた。けれども、間違いは訂正すれば良いのであって、間違った自分を咎めることなく、冷静に、価値判断を持たずに、深刻にならずに、微笑みを浮かべながら、「ああ、またやっちまった、今、確かに自分は自我を選んでいるのだな」と認識はできたので、よしとしようと思う。(お目当てのチョコレートは結局見つけられなかったが、かわりに業務スーパーで、巨大な板チョコを格安で見つけたので、今から美味しくいただこうと思う。)
( 2022年5月 by DTA1973)
