『奇跡講座』による救済について
・・(他の学習者とのやり取りの返信として)・・
『奇跡講座』というものは、私たちが自ら正しい選択ができるようになるのを助けてくれるものであり、選択自体は私たちがしなければならないということと、テキストや教材の学習から直接救済を求めることはできないということ、そうしたことは、理論学習と実践との対比の意味で言ったのではないのです。
理論学習においても日々の赦しの実践においても区別なくあてはまることだと感じています。
上記に書いたことは、次のようにも言いかえられます。
聖霊は、私たちが自ら正しい選択ができるようになるのを助けてくれるものであり、選択自体は私たちがしなければならない、聖霊に直接救済を求めることはできない。
テキストや教材を学習しようとするとき、赦そうとするとき、どちらも聖霊(イエス先生)に耳を傾けようとしているはずなのです。しかし、そこに直接救済を求めるなら、自分は救済とは何であるかわかっているという前提に立ってしまうことになります。そうであれば、耳を傾けようとしながら耳を塞ぎ、反対に、自分のいうことをきいてくれと要求していることになってしまいます。
思考も知覚も逆立ち状態で混乱し、何を求めて何をしているのか、ほとんどわからなくなっているから、助けが必要なのです。自分に不必要なものを取り除き必要なものを得たいという考えや知覚自体が間違っているのに、そのような前提でしか考え知覚することができないのです。だから、自分一人ではどうしようもなく、助けが必要なのです。その助けとなるのが『奇跡講座』であり聖霊なのだと思います。その助けにより、一人ではまったく自覚できない別の選択肢があるということを実感し、選択の力を思い出すことができるのです。
私がイメージできる救済とは個別の存在(人間)の観点からの救済を超えることはできません。だからテキストを読むなり、聖霊に意識を向けるなり、といった個別の存在(人間)の働きによって実現するものとしか見れないのです。しかし、そこには救済はないのです。
救済は真理の否定の否定により訪れます。それは、『奇跡講座』や聖霊に助けてもらいながら、自分が何を信じ何をしているかを自覚し、それをもう望まないと決断することだと思います。
しかし、自覚するということは容易なことではなく、何層も何層も闇で覆われている中を潜っていかなくてはならない。ほとんど自覚していないというところから自覚していかなくてはならない。だから、聖霊の助けはもちろん、テキストや教材の学習という助けも欠かせないものだと思うのです。
( 2022年12月 by pallaksch )

