「内容」と「形態」
わかった、つもりだったが、どうしても「私は(具体的な)あんなことをしてない!」という抵抗があって、赦したいと思えない。
私がされて傷ついたと思っている出来事の、最大公約数的共通項を探し出して、それと、
自分のしてきたことを照らし合わせてみる。
たしかにカタチは違えど、私もやっている、と納得しようとする。
しかし、もやもやしたままだ。聖霊に助けを求めて、一緒に見つめて欲しいと願う。
「悲しかった。驚いた。やるせなかった。怖かった」
「許せない。許したら困る。無駄になってしまう」
という思いが出てきて、ああ、まずはこれを認めようと思った。
そして、フォーラムの投稿で以下の教材が紹介されていて、そっと、助け舟が出された。
ここ最近の気づきに、これがとても役に立った。
過去、赦しをしたと思っていたことは、脳内で、「形態」をあれこれこねくりまわしていただけ。
腹を立てて攻撃していた相手のことを、「自分の目的のために人を傷つけても罪悪感を持たないもしくは著しく、そのことに鈍い、頭のおかしい人たち」と認識していたが、それはそのまんま、私の、心の選択への無自覚さ、利己的な、自我の目的がこの上なく成就されていることに対する、無自覚さ、そのもの。
うーー、きついなあ、あの人たちへの批判、糾弾が、ブーメランのごとく返ってくる。初めから、私に向かって投げていたんだろうけど。
こころを、別の目的に使わせてくださいと祈ろう。
あわてず、ゆっくり、隠し持っていた思いと、その奥の願望と、それらを持ち続けていたいかということを、聖霊とともに見つめていきたいと思う。
(2019年10月 by カラコル )

