周りの反応

(入院中の話)

昨日の19時過ぎ、ベッドに介護士さんが来られて

「アムロさーん、ご家族の方が荷物持ってこられたと受付から連絡がありましたが、何か洗濯物とか渡す物ありますか?」と聞かれた。

「え?家族はいないので、誰も来ないと思いますが」と答えると

「そうなんですか?じゃあ、洗濯物とかは持っておりなくて大丈夫ですね?」と聞かれたので

「はい、大丈夫です」と答えた。

すると同室のご婦人の一人が

「あら、私の時は17時までに持ってきてくださいってキツく注意されたのに、アムロさんは良いってどう言うこと💢」

と騒ぎ出し、もう一人のご婦人は

「私も以前、別の人の荷物が届いた事があるから、今回も誰かと間違えてるのでは?さっきだって◯◯を間違えて…」

と、みんなでスタッフのミスをやいのやいの指摘し出し、病室は愚痴の嵐となった。

結局その荷物はお友達からのお見舞いの品で、本が3冊とお見舞いの手紙が入っていた。

直前まで、愚痴の嵐に巻き込まれていた私は、つい

「来るなら事前に知らせてくれれば、こんな騒ぎにもならなかったのに」と、本当に困った人ね、という感じで言ってしまった。

言った後に、しまった!せっかくわざわざお見舞いを持ってきてくれたのに、本当なら、「ありがとう」と感謝しなきゃいけないのに、あぁ、なんて酷いことを言ってしまったんだ!と、気持ちが、二度と元に戻らないぐらいペシャンコに潰れてしまった。

きっと同室のご婦人達にも軽蔑されたに違いない。せっかく今まで楽しくおしゃべりできていたのに台無しだ。

いや、そもそもこれが私の本性かもしれない、そうだ、私は酷いやつなのだ!今まで良い人のふりをしてきたけど、自分でもそこそこ自分のことを善人だと思ってきたけどとんでもない、ただの上っ面だったのだ。

嫌な気持ちに押しつぶされそうになり、もうここから逃げ出したいと思い、この気持ちを教室にすることにした。

そう、まず、「私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。」

私が友達にひどいことを言い、そのことで周りの人から軽蔑されたから動揺しているのではない。

〈決断の主体〉の選択の結果を見ているのだ。でも、自分の責任だと素直に認めたくない。いやだいやだ!と抵抗していると、ふと、そうだ、聖霊と共に見てみようと思い、その日読んだテキストの内容を思い出した。

自分の事を傷つく存在だと思っているということは、自分が何であるかがわかってないということだ。

今日読んだテキストに、「神の子とは」について、これでもかと言うほどたくさん書かれてあった。

今の私は、その真逆を、自分自身だと思っている。

テキストの内容を思い出し、自分は神の子なんだと思い、その日は安心して眠ることができた。

しかし、夜中に目が覚めると、またもくもくと黒い雲が出てきて「私は友達に酷いことを言った、私は友達に酷いことを言った」と繰り返し、とうとうすっぽり心を覆い隠してしまった。

トイレに行こうと両脇に松葉杖を持ち、カチャン、カチャンと真っ暗な病室を歩いていると、また、テキストの内容を思い出した。

たしか昨日読んだテキストには、私が神の子であるのと同じくらい、兄弟もそうであると書かれていた。

私は昨日、自分はなんであるかについて考えてみたが、兄弟については、私を軽蔑してくる存在のままにしていた。

同室のご婦人たちも神の子ならば、私のことを軽蔑したと思っているのは、やはり、私の選択の結果であり、反映であり、選択した私〈決断の主体〉の責任なのだ。

彼女たちは一度だって神の子でなくなったわけではない

私がそのように見ていただけなのだ。

私が兄弟をそのように見るということは、自分もそうであると思っているということ。

そしてそれは、自我と共に見ていることを証明している。

私が兄弟を聖霊と共に見れば、私を軽蔑してくる姿を通り越し、その奥の、変わらず神の子だという本当の姿が見え、それは自分も同じなのだと思えた。

これが、兄弟の中の聖霊を見ることで、自分の聖性が強化されるということなのか?

他のことでも実験したくなり、過去の出来事にも応用してみた。

過去の数々の失言、それに対する周りの反応、その時私は相手のことをどう見ていたのか、それはどちらの教師と見ていたのか、そして今、再び聖霊と見てみる。

これからも実験してみようと思う。

(2022年5月 by アムロ)