対岸の火事

「聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説」P42の初めの段落を読んで、あることを思いだしました。

私は子供のころ、コントロールの利かない憑依体質で、どこかの誰かの苦痛を自分のことのように感じていました。

しかし、大人になるにつれ、自分には関係のないこととして捉えられるようになりました。

もし、子どもの頃の私が、世界で起こっている戦争や、様々な残虐な事件や事故のことを知ったら、きっとあの頃のようにブルブルと震えながら眠れぬ夜を過ごしていたでしょう。

しかし今の私は、家のリビングでお茶をすすりながら呑気にニュースを見て、ニュースが終わればテレビを切って、何もなかったように鼻歌を歌いながら洗濯物を干しています。

そして思いました。(妄想癖は、大人になっても治っていません(^^;)

ニュースで見ている悲惨な出来事が、もし自分の身に起きたら、私の町で戦争が起きたら、自分の身内がコロナで亡くなったら、家族が事故で亡くなったら…。

でも、今の私は、遠い国の戦争より、他人の家族のことより、自分の家の台所にたまった洗い物のほうが憂鬱で、深刻な問題なのです。

そして私はこの憂鬱を解決するために、重い腰を上げて茶碗を洗います。流しがきれいになり、気持ちも晴れ、スッキリした気持ちでまたお茶をすすります。平安に満たされて。

そんな時も、どこかで誰かが悲惨な状況下で死んでいっています。それを私は知らないわけではありません。でも、見て見ぬふりをしています。

今の私は、身近に起こったとことと、遠くの誰かに起こったことを同じ問題だとは見ていない。

ならば、『奇跡講座』学習者である私は、この安全なリビングで、そのような人たちに想いを馳せ、みんな同じ神の子としてすべての人を見ることに努めるのか?

全て幻想だと思い、いたたまれない気持ちに蓋をするのか?

今の私に一番しっくりくるのは、遠い国や知らない人に起きている目を覆いたくなるような悲惨な出来事も、自分に関係のないことではなく

日々の小さな動揺と原因は同じ、私が信じていることなんだとその原因を正直に見ることだと感じました。

イエス先生は、十字架刑ですら、同じように見ていた。

でも、だからと言って、イエス先生のようにすべて同じと見ることができない自分を責めるのではなく

第四段落のはじめ

聖霊にとっては、奇跡に難しさの序列はない。このことは、今ではあなたにとって充分に聞きなれたものとなっているが、まだ信じられるものとなってはいない。 したがって、あなたはそれを理解せず、それを使うことができない。

(T-6.A.4:1-3)

聞き慣れてはいるけれどどういう意味なのかわかっていない(使うことができない)、ということを認識し

P43のはじめ

けれども、( A.4:2-3)の中にも、「まだ信じられるものとなっていない。したがって、あなたはそれを理解せず、それを使うことができない」とあるように、この原則を信じ、理解し、使えるようになるまでには練習が必要です。一朝一夕で達成できることではありませんが、少なくとも、学びと実践は、その方向へ進んでいくということを理解していることは、大きな助けになります。

「聖霊のレッスン」P43

どういう方向へ進んでいるのかを理解しつつ練習をしていけば、いつかたどり着けると信じ、練習がんばろ(๑•̀ㅂ•́)و✧って思いました。