本音と建前
何年か前のことですが、誰でも参加OKの読書会に行ったことがありました。
そのときのテーマは、「名刺代わりの1冊」でした。
それぞれの選んだ本の紹介と、それにまつわる話が一通り終わった後に、ある人が、「実は、こっちを紹介したかったんだよね」と、別の本を出しました。
すると皆が、「いや、実は自分も……」、「私も……」と、次々に本命の1冊の話をし始めたんです。
「本当は、こっちを名刺代わりにしたかったんだけど、発表するときにどう思われるか気になって」という理由がほとんどでした。
私は、自分が一番好きな小説を持っていきましたが、名刺代わりというなら、毎日どこかしらを読んで、それを生きようとしている『奇跡講座』が第一候補になっていてもよかったんです。
皆が「実は……」と、別の本の話をしたときに言ったってよかったけれど、話しませんでした。
その理由は、「宗教だと思われるのが嫌」とか、「短時間で誤解を招かず説明できる気がしない」とか、「質問されたりしても面倒かな」だったり、いろいろでしたが、果たしてそれだけだったのかどうか……。
日常で起きることを区別せずに教室にして心を見ていくように気を付けていても、イエスと聖霊に対して正直でいようと心掛けていても、「この世界」の常識と逆のことを学んたり、自我の取り消しに取り組んでいたりすることに熱心になっていても、表向きには、二元の世界を信じていますという顔をして暮らしているわけです。
ビデオ #19 「『奇跡講座』を人生のすべてとしない」で言われているように、形態と内容を混同しなければいいわけなので、その名刺代わりの本が『奇跡講座』であろうが、他の本であろうが、何の問題もないわけです。
ワプニック博士が言っている、「Being normal」のことを思えば、好きな小説を選んだって構わないし、逆に『奇跡講座』を選んでいたら、コースと<特別な関係>を築いていないかどうかを確認する必要があったかもしれません。
何が引っ掛かっているかというと……。
「聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説」p.14
まったく正反対の方向を向いている二つの思考体系の間で、一方から他方への移行を達成するには、どのようなプロセスを経ていくのか
「聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説」
「世界」を信じている心にとっては突拍子もないような上記のことに、自分の内面をかけて臨み、学び、実践までしているというのに、すんなり『奇跡講座』のことを言いづらいというのは、自分の中だけでも分離があるみたいだなと思ったんです。まるで本音と建前みたいに。
さらに、同じ一つの心を共有している兄弟たちを、「学習している者」と「そうでない者」と分けて見てしまっていたのではないかとも思いました。
まさに、
p.12
光と闇、右と左、上と下、昼と夜などといった相反する二つのものや概念を認識して、ものごとの間に違いを見続け、常に、分裂することを繰り返して
「聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説」
心に葛藤が起きたんだなと思いました。
(2022年6月 by Susan)

