赦したいと望むこと

冊子、「聖霊のレッスン」を読んでの感想です。

P65〜

だから、自我の動機づけにかわるものが必要です。それを提供しているのが、レッスンBであり、葛藤の世界から離れて、心に戻りたくなるための動機となるのが、「心の平安」なのです。

「平安」とは、「神の子を、例外なく、全一なものとして見ること」からもたらされるものです。

 しかも、その平安とは、勝者と敗者が存在する「戦いの終結」というような、この世界の平和ではなく、聖書の中で「人知を超える神の平安」と言われている、この世のものではない内なる平安のことです。

 これを動機とすることにより、レッスンAの難しさを超えていけるようになります。

ここを読んで、確かにそうだな、と感じます。

私が書くことは、どうしても職場がらみのことになってしまうのですが💦(職場は本当にありがたい教室です )

職場ではこれまで、沢山の苦しみ(罪悪感や恐れ、怒り、混乱、自己卑下、特別な関係など)を感じてきました。

ですが、決して長くは続かないけれど、平安を感じたこともあります。

それはとても幸せで、満たされていて、感じるのは愛と感謝と喜びだけでした。

ただ愛の中にいて、自分は愛の一部であると感じられる、そのような体験でした。

そういった感覚の時は、外の世界のことには関心がなくなります。

つまり、外の世界がどのような状態でも構わないのです。

職場で私のことを非難している人がいようが、全く気になりません。

愛以外のものに焦点を合わせることができないので、ただ幸せなのです。

そんなに幸せなのに、なぜすぐに自我を選んでしまうのか。

ここに難しさがあるのだと思います。

自我としての私は神の平安を望んではいないからです。

神の平安ということは、自分が消滅するということだから、

私にとってこんなに恐ろしいことはありません。

だから平安などというものを選ばないように、恐れを感じる、ということを選んでしまいます。

けれども、私の中には確かに平安を望んでいる部分もあって、

赦しが難しいな、と思う時、

混乱や恐れを感じているのと、あの素晴らしい平安とどっちがいいか?と自分に問いかけます。

そうすると、やっぱり平安がいい、と赦せない気持ちをイエスに差し出そう、となることが多いです。

そうならない場合ももちろんあります。

それならそれで、私はまだ恐れているんだな、と咎めずにその気持ちを見ています。

今日職場でちょっと嫌な空気を感じたのですが、それは私が受付のエキスパートの人に、

「教わった通りのやり方だと、レアなケースの患者さんの場合、レセコンの入力がうまくいかない」ということを言わなければいけないことに恐れを感じていたからなのです。

これは退職してもういない人から教わったことで、そのことを他のスタッフはなぜだか知らなくて、

私一人がみんなと違うことを言っている状況だったのです。

この嫌な感じは自分で選んだものなのだし、これ自体は何の問題でもない。

以前感じた平安を思い出し、イエスを信頼して差し出せば絶対に大丈夫なのだ、と思えました。

P66

このコースを真剣に学ぶということは、決して、常にすべてを完璧に赦さなければいけないということではありません。行動のレベルでの完璧な実践を求められているわけではなく、重要なのは、「赦したいと望む」ということです。 

確かに平安は「赦したい」と思う気持ちを助けてくれるし、恐れも小さくしてくれると感じます。

コツコツとひたすら赦しを続けていれば平安を感じられることも増えて、

そうすれば赦しがしやすくなり、恐れも小さくなっていくのだろうなぁ、と思います。

(2022年8月 by たんぽぽ)