今日の教室はポテサラ
◯◯さんが書かれた記事を読んで、自分も思考にブロックをした出来事を思い出しました。
夕飯にポテトサラダを作ったときのこと、高齢の母に「テーブルに持って行って器についで」と頼みました。
そうしたら、母が手を滑らしテーブルに落としてしまい、ポテサラを入れていたガラスの器が割れてグチャグチャに。一瞬カッとなって「なんで!?」ときつい口調で言ってしまいました。
上の方だけ食べられないかとも考えたけど、ガラスが飛び散っていたらと思ったので、結局全部捨てました。ああ、せっかく作ったのに・・・
ポテサラも結構手間がかかってる!
カレーの時の大切な副菜で、一品減ったらおかずが貧しくなる!
あ~~~~!もう!何してくれたのよ!
せっかく2日分だと思ってたくさん作ったのに!
運ぶのもできないなら、もう何も頼めないじゃないか!
母には口では文句は言いませんでしたが、次々に頭の中での攻撃があふれてきて、考えるのを止めました。それ以上母への罵詈雑言を頭の中でも言うのは、人としてひどいと考えたからです。
客観的に見れば、ポテサラが食べられなくなっただけの小さな出来事。だけど、自分でも驚くほどガッカリしました。考えないようにしていても、それでもため息は出るし、夕飯の間ずっと私は喋りませんでした。(結局は消極な攻撃をしてしまいました)
落ち着いてから、ゆっくりと赦し始めたのですが、自分の醜さを見ないために考えないようにするということは、赦しへと進まないようにすることで、自分の罪悪感を見ないようにすること。自我の思惑として、心に戻って選びなおさせないようにすることだなと思いました。
だから、一度自分の気持ちを吐き出しました。
ひどいじゃないか、せっかく作ったのに。
ポテサラみんなが喜ぶと思って作ったのに、全部台無しにして。
私が作ったものをぶち壊すなんて、ひどいぞ!
私が作ったのに、せっかく作ったのに!
母に対する文句を頭の中で言いながら、これは結局は投影で、自分自身に対する攻撃だと感じて嫌だなと思いました。
私は天国を壊したと思って自分を恥ずかしく思い、憎んでいるんですよね。
そして私が作ったものを壊すなという主張は、聖霊に対して「自分が作った分離の世界を絶対に壊させないぞ!」と、言っているようだとも思いました。
途中で止めた攻撃の気持ちをもう一度ちゃんと見て、これらを手放したいと頼んだら、なんだかスッキリしました。
食べられなかったポテサラで、抑圧についてと神への憎悪についても考えることができた気がします😄
(2022年10月 by peko )

