平安を動機とする
冊子「聖霊のレッスン」の以下のところを読んで、「聖霊のレッスン」にまつわる葛藤について考えてみました。
さらに、このレッスンが難しいもう一つの理由として、「投影」があります。
自分で自覚していない葛藤はすべて、抑圧されて投影されますが、この「聖霊のレッスン」にまつわる葛藤も、例外ではありません。ですから、自分の葛藤を他者に投影して、「彼らの動機に一貫性がない」と知覚してしまうことになります。そうなると、このレッスンAを行うのがさらに難しくなってしまいます。ですから、こういうところでも投影は起こっているということを認識し、こうした葛藤や、自我の動機を、抑圧せずに聖霊と共に見るということが、非常に重要です。
「聖霊のレッスン」86-87ページ
動機とは何か
『原因についてのコース』に、心理学では人がある特定の行動をするとき、その人をそのような行動に駆り立てるものは何なのかを研究するとあります。
動機づけ:行動を引き起こし、それを特定の方向に導き、さらにそれを維持・強化する一連の行動発生のプロセス
「原因についてのコース」71ページ
分離した神の子が、すぐに神のもとに戻ろうとしないで、自我を選択し、心の外に出てしまい、ずっと心の外の世界にとどまろうとしているという、この一連のプロセスを、その背後にある動機を明らかにすることによって、それがこの幻想が存在する理由であると説明しているのです。
「原因についてのコース」72ページ
では自我の動機とは何か
とにかく、ここで自我にとって重要なことは、神の子が再び選択しなおそうと思わないようにすること、つまり、神の子が上の○のところに戻って〈決断の主体〉としての力を使わないようにすること、ということになります。これが、自我を動機づけているものです。
「思考の逆転」32ページ
神の子が心に戻ってしまうことが自我の存続を脅かすので、戻れないように自我が使うものが「罪・恐れ・罪悪感」であり、それを投影するための「特別な関係」である。
自我としての私が経験しているのは、自分は世界に生きる一個人の肉体であり、この世界の法則の下に影響される被害者である。自分の外に見えるあらゆるもの、あらゆる人と自分は異なり独立して存在している。
頭脳で考え、決断し行動して生きるが、いずれ死ぬ儚い存在だ。自分が所有するものは外から獲得しないといけないし、与えたものは失われる。心は頭脳の働きの一部で、この世界を生きるための道具であり、それ以外の意味は知らない。
こうしたことを続けている動機が心に戻りたくないということ。
聖霊の動機とは何か
自我の動機に逆らって、奇跡講座を学び、日常生活を違った見方で見ることを望み、赦しを実践しよういう行動に私たちを駆り立てる動機は何か
だから、自我の動機づけに変わるものが必要です。それを提供しているのが、レッスンBであり、葛藤の世界から離れて、心に戻りたくなるための動機となるのが、「心の平安」なのです。
「平安」とは、「神の子を、例外なく、全一なものとして見ること」からもたらされるものです。
「聖霊のレッスン」65-66ページ
私は赦しが平安をもたらすという体験が個人的にあまり出来ていないような気がしますが、それでも「心の平安」が動機でコースを学びたいと思っているのは確かです。
「この世界でこのように苦しんでいるのはなぜか、何の意味があるのか、この世界の中に幸せはないような気がする、ではどうしたらいいのか。」自分の中でこうした疑問をもち平安を動機として、コースを学びたいという気持ちがある一方で、「そうはいっても私はこの世界を生きる肉体の個人であり、今抱えている問題を解決したり上手く対処できれば、それなりに楽しく幸せに人生を生きることもできる」と信じている。
それが葛藤をもつ心なのかなというのが、今のところの私の理解です。
(2022年9月 by yukihide)

