私はそれを持ったままでいたくない
兄弟に対して、「困ったなぁ」と思ってすぐに、「いや、それは私の解釈だった」と思い直したら、イエスが言っているとおり、私は自分の判断によって困ったことになっていて、その人がそのように解釈されるいわれは何もないということが分かりました。
それは、兄弟にはりつけた私の解釈を引きはがしたかのような印象でした。はがれた私の解釈(そのときの困った感情、その奥の怒りなど)は、とても気分を悪くさせるもので、私はそれを持ったままでいたくないと思いました。
その間、聖霊から意識を外らさないようにしていたので、「これはそのままにしておくことはできない。放っておけば、またすぐに誰かや何かに覆いのようにかぶせてしまうだろう」と思い、それを聖霊に差し出すことができました。
あなたは、兄弟があなたを傷つけたことによって、あなたを動揺させる原因となったと考えました。しかし、そういうことが起こったのではありません。起こったこととは、友人との外的な出来事より以前に、あなた自身が、心の中で自我と一体感をもつことを選択した、ということです。すなわち、「自分は、神に創造されたままのひとりの無垢なる神の子という霊としての存在ではなく、肉体の中に居る分離した個人だ」と信じることを選んだということです。実際、これがあなたが居たところです。
【質問】No.31 (org.#525)
この選択をしたことにまつわる罪悪感が、対人関係や世界の中で遭遇するあらゆる不愉快な状況への反応という形で、心の外側に投影されるのです。
「起こっていないことを赦す」とは?
「三部作」や資料で学習したことを生活の中の様々な場面で実践してみて、何か感じたり思ったりしたら、学んだことを定着させ、さらに深く学べるように、関係がありそうなところを探してまた読むということをしていますが、時々、それまでと違った感じを得られたり、以前は分からなかったことに気づけたりすることがあります。
こうやって、だんだんと、「自分が学びたいことは平安だということを学ぶ(T-6.V-C.6:2)」のですね。

