自分を癒す機会
保育園で毎日子どもたちを保育しながら、自分の関わり方に迷いが生じることがよくあります。
そんな時に見つけたのが【JQA #27: 人生の中の「対象」ということについて(または、「何を癒すのか」ということ)】です。
すべてを引用したいくらいですが、その中でも
けれども、医療の分野で治療に携わっている人々が特に注意すべきことがあるとすれば、それは、「自分は治療に関する特別な知識や技能を持っている者であり、それを用いて、自分が他者を癒している」という考え方に陥りやすいということです。(というよりも、むしろ、真の癒しを経験していない「癒されていないヒーラー」は必ず、そのような考え方をしています。)その場合、他者の治癒の責任を自分が負うことになり、他者の症状の変化に一喜一憂しなければならなくなります。他者の病が治ればそれが自分の手柄となり、他者を癒せなければ自分を責めることになります。そうすると、「自分と他者は異なっている」という「分離」の知覚が強化されてしまい、自分自身の癒しも不可能となってしまいます。
JQA #27: 人生の中の「対象」ということについて(または、「何を癒すのか」ということ)
ここではセラピストと患者の関係性で語られていますが、保育者と子どもの関係でも同じだと思います。子どもたちが落ち着いて好きな遊びに集中していたり、他の子と仲良く穏やかに何かに取り組んでいたりすると自分の関わり方が適切だと安心し、反対に騒がしくあちらこちらでケンカが起きたり泣き声が聞こえたりすると、動揺して不安になり自分の関わり方の誤りを責めることになります。
ですから、「自分と他者が存在する」という前提のもとで、“自分が” 他者を癒すと考えている治療者は、真の意味で「癒す」ことはできません。けれども、他者との関係を、「自分を癒す機会」とするために聖霊に助けを求めるなら(つまり、赦しのプロセスを行うなら)、治療者は自分の罪悪感、およびそこから生じている〈特別な関係〉を癒し、真の意味で他者の助けになる治療者となることができます。
JQA #27: 人生の中の「対象」ということについて(または、「何を癒すのか」ということ)
目の前の子どもたちの状態が自分の関わり方の結果であると見ると、成功と失敗、良い悪い、泣く笑う、優しいいじわる、仲良しけんか等様々な分離を見て罪悪感を感じることを避けて通れません。そうではなく、そこに自分が何を投影しているかを見て罪悪感を手放す教室とすることで、動揺せず裁かずに自分と子どもたちを見られるようになるのだと思います。
何が正しくて何が間違ったことなのか、私に判断できることではありません。「怒る、泣く」という形態、「喜ぶ、笑う」という形態の内容が良いことなのか悪いことなのかもわかりません。子どもたちを導くのは子どもたちの中にいる聖霊だと思います。聖霊を信頼し助けを求め、子どもたち一人ひとりの中にいる神を見ようとすることで、子どもたちの助けになる保育者になり、私自身も癒やされるのだと思います。
あらゆる人との関係、あらゆる状況が癒しの教室であること、赦しの教室であることを覚えて、これからも励んでいきたいと思います。
(2023年7月 by ららばい)

