とにかく「咎めたい」

あまり目覚めの良い朝ではなかった。

夢を見ていたけど、もはやその夢の中身については朧げで、ところどころしか思い出せない。ただ、針が刺さったような痛みが胸元に残っていた。

布団の中でゴロゴロしながら、胸の痛みを感じながら、ずいぶん前の人間関係のひとコマを思い出していた。それは気持ちの良い記憶ではなく、過ぎてしまった時間を虚しく思い出すだけのものだった。

「あの時、もっとちゃんと判断できていれば」とか、「気づくべきだった」「あぁ、あの時の私は考えが幼かったな」というように、その頃の自分の判断の未熟さを思い返して不甲斐なく感じていた。

・・・フと思った。
私は、何をしているのだろう。これは何なんだ?
どのように見ていけばいいんだっけ?

今日の私は、あの時の私を咎めているのか。
そこに罪悪感を投影し、もっと自分を大切にできたはずだと「非難している」のか。

JACIMサイトのQ&A質問 NO.37の一説を思い出した。

そして、私たちは自分が被害者となったときの話を何回となく繰り返して語りたがる傾向があります。どんなに不当に扱われたか、どんなふうに虐待されたか、どんな被害をうけたか、そしてそれは全く自分のせいではない、と思い続けたいのです。

【質問37】 人災について(講話)

今日、私の目覚めが心地よいものでないのは、過去の私の未熟さを「犯人」として見つけ出して、そのことを非難しているのかもしれない。今日の私は過去の私の被害者で、過去の私が加害者になっている、という構図が思い浮かんだ。

そして、自分で自分を責めて苦しみを感じているのは、自我の思考体系を選んでいるということなのだから、それを聖霊とともに見て手放したい、と思った。

けれども、その時、今度は何か忘れているような気持ちになった。

自分で自分を責めている事の発端は、あの人間関係のあの違和感なのだ。彼らを忘れてはいないか?彼らに対して、目に見える腹立たしさや憎しみを感じるわけではないけれど、このような自己譴責は、あの状況がなかったら感じることはなかった。

そんなことを考えていたら、自分で自分を咎めていることを見つめて自我を手放そうとすること、つまり赦そうとすることが、彼らを置き去りにしているような気がして、自分さえ良ければいいという利己的な考えを持っているように思えてきた。

なんだか、いろいろややこしくなってきた。落ち着こう。
何を赦すのか、「自分」について、少し混乱してしいるようだ。

そうか・・・
とにかく私は「咎めたい」のだ。

「咎めたい」という考え、「咎めることがある」「罪が実在し、自分が罪を犯すことができる存在だ」「自分自身や誰かから攻撃され、その影響を受けることができる」という自我の信念を私は信じているのだ。

この信念を手放せるよう、聖霊に心を寄せたいと思った。
私は何者なのか? この誤った自己認識を正しく知覚できるように、これを聖霊の光のもとに運び、助けを求めたいと思った。

( 2023年7月 by シャンティ )