信頼

映画「アラジン」を観たとき、「僕を信じて」という言葉から、テキストの

私があなたに対して抱いている完全な信頼のゆえに、ごくわずかな信頼を私に与えてほしい。そうすれば、私たちは共に完全無欠性というゴールを容易に達成するだろう。

(T-12.II.8:5)

を思い出しました。

そもそも私たちは、個人として何かを信じ切るというのは、不可能なことです。

信じるには、絶え間ぬ努力や苦痛や犠牲や特別な何かが必要だと思ってしまう。でも、それは個としての自分であることを選んでいるからです。

そうではなく、イエス先生の手をとる。
手に触れたとたん、すーっと引き上げられる。
そして確信こそが自然なことになる。

私たちがやるべきことというのは、

「もしかしたら、自分は間違っているかもしれない」、「別の見方があるのかもしれない」、「もしあるのなら、それを学びたい」という気持ちを抱いて、その気持ちと一緒に自我の闇の想念を光のもとへと運んでいく…

『聖霊のレッスン』p.126

ことです。

でも、すぐに絨毯から落っこちようとする。落っこちてるのを思い出しては、イエス先生の手をとる。何度も何度も何度も落っこちてるのを思い出しては手をとりしているうちに、日常意識にも信じることが自然になってくるのかなと思いました。