赦しの欠如
一昨日仕事から帰ると母が真っ青な顔をして、
「泥棒が入ったかもしれない」と、言うのです。
朝起きて、いつも持っているカバンを見たら中が空っぽだったと。保険証、お金、書類が全部無い、と。一日中探しても見つからない。警察を呼んだらお爺さんに知られて怒られる。だから相談できないと。
でも、うちは家族の誰かが常に家にいるので、泥棒が入ったとは考えにくいし、母も少し忘れっぽくなっているので、自分でどこかに置いたのだろうと思いました。そのうち見つかるだろう、と。
ただ、困るのは保険証が無いことで、今日から2月ということは、保険証が無いと病院を受診できないのです。
それで今朝、市役所に保険証の再発行をしに、連れていって欲しいと頼まれました。
最近、私はこのような時まず絶望の感情が湧いてきます。一旦、色々と最悪の状況についてイメージが湧いてきます。叫びだしそうになります。怒鳴り散らしたくなります。実際30秒〜5分くらいはやります
でもその後ストップをかけます。映画の撮影で「カーット!」と監督がストップをかける時みたいに。ムンクの叫びみたいな顔で一旦止まります。
このままこれを続けると苦しくなるだけで、楽にならないことが長年の経験からわかってきたので、違う道があるならそうしたいと思う、それに徐々に従いたくなってきている、だからとにかく心のなかで聖霊に助けを求めながら一旦止まります。
そして「なんて私達は真理から離れてしまっているのだろうか、兄弟よ」と、思います。怒っている自分から一歩下がって隙間を置く感じで。
これは、仕事で患者さん達を見る時に習慣にするようにしているので、だんだんと母や父にも、息子にも(一旦、怒り怒鳴るということをした後が多いですが(^_^;))そのように思うようになりました。(何というか、患者さんを見る時に、相手を「病気で動けなくなっている人」と見る方が、自分に苦痛をもたらすので、違う見方で見る練習をしています。自分と相手が分離している、という見方が苦痛をもたらすのだろうと感じています。)
今朝はその後「赦しの欠如」という言葉が浮かんできました。「奇跡の原理」の読書会で学んだことが次々と思い出されました。
自分は、問題が存在することを望んでいるんだ。この状況は、いわば自我を選択した私の、望みが叶った状態なんだ。苦しみをもたらす問題が存在していてほしい、罪悪感が実在してほしい、分離が実在していてほしい、と自我を選択した私は望んでいるんだ、と思いました。
そしてそれを判断しないで見られるように、裁かないで見られるように聖霊に助けを求めました。
そうすると、心が静かになって、とにかく一緒に探してみよう、と近くにあった書類の箱を見てみました。
すると、次々と保険証や小銭の入った財布、書類が出てきました。お金も、別の所から出てきました… 2日間、母が探しても無かったらしいのですが…。
…なんというか
赦しはじっと静かにして、何もしない。
ワークブック第2部1、「赦しとは何か」4:1.3
ただ見て、待つのみであり、判断はしない。
これを本当に実践できれば、何をするのも確かに苦しみと共にはしなくて済むのだと思いました。保険証が見つからなくても、怒りを持たずにただやることをしていくのだろうけど、私はまだ完全にそうすることは望んでいないのだと思います。
すぐそのことを忘れますから。
それは決断の主体が自我を選択した証拠ですよね。
心が自我を選択したすぐその後にすることは、まず否認で、否認したものは忘れられるし、それに必ず投影が続く。
その投影を見て「あなたが悪い」と、怒りたい。怒りで自分の望むもの「特別性」を守りたい。そのように自我を存続させたいという欲求がある。
今の私にできるのは、とにかくそのこと(自我を選んだこと)に気づくこと。教材で自我について学ぶこと。そうして心を、訓練していくことだと思いました。
( 2023年2月 by ふうせん )

