学びの抵抗と、真の祈りへのステップ
私は時々、『奇跡講座』を信じられなくなることがあります。
この世界は現実であり、「神、聖霊」のほうが架空の世界ではないかと思ったりします。
そのような状態で学ぶわけですから、抵抗が起きないはずがありません。
私の一番の願いは、何が起きても起きなくても、平安に生きることです。
そのことを教えてくれる『奇跡講座』から離れるわけにはいきません。
抵抗があっても学びには助けがあると感じます。
JACIMの教材を開くと胸にせまる一節に出会えたり、JACIMフォーラムに励まされたりするからです。
『天国から離れて』の第十七章、「小冊子『祈りの歌』」の感想です。
真の祈りは、願いを叶えてもらおうとして求めるという落とし穴を回避しなければならない。そのように求めるのではなく、すでに与えられているものを受け取ることができるように、すなわち、すでにそこにあるものを受け入れられるようにと、求めなさい。(S-1.I.1:6-7)
書籍版p.538 電子版p.1102
プロセスとしての祈りという文脈で言えば、ここでイエスが語っていることは、祈りのプロセスの最終段階を反映している。
書籍版p.539 電子版p.1104
愛は歓迎を待っている。(中略)そして実相世界とは、これまでも常に存在してきたものを、あなたが歓迎することに他ならない。(T-13.VII.9:7)
書籍版p.540 電子版p.1105~1106
私はまだ愛を歓迎する段階ではないので、真の祈りができるようになるために、練習する必要があると思いました。
ここにおけるイエスの目的は、あきらかに、祈りのこの魔術的形態に陥ってしまう人々に罪悪感をもたせることではなく、単に、彼らが真に何を欲しているかを思い出させることにある。人は常に始まりから始めなくてはならない。そして『奇跡講座』は受講生たちに、真の到達目標である平安に達するために必要な一つひとつのステップを省略して進むようなことは決して勧めていない。神が、子どもたちを天国へと連れ戻す「最後の一歩」を踏み出せるようにするのは、これらの一歩一歩である。 ー 「神がこの最後の一歩を踏み出してくれる。神ご自身へ向かって踏み出すようにと、神があなたに求める小さな一歩一歩を神に拒んではならない」。(W-pI.193.13:6-7)
書籍版P.541 電子版p.1107
真の到達目標である平安に達するために必要な一つひとつのステップを省略しないことが大切であると思いました。
根気のいる長い道のりであるので、焦らずに進んでいこうと思います。
唯一の有意義な祈りは赦しを求める祈りである。(T-3.V.6:3)
赦しの練習をする時にイメージしてみたい箇所がありました。
こうして、なんらかの状況についてどうしたらよいのかわからず、決断できず、不確かであるとき、私たちに要求されるのは、自らの心の視線をもっと上方に移すように、ということである。つまり自分が存在していると思っている下方の戦場、すなわち「つかの間の問題についての少しばかりの些細な助言」を追求し続けている場所ではなく、もっと上方に私たちの心の視線を移すということである。戦場から立ち去り、私たちはイエスや聖霊という愛に満ちた存在と再び一緒になり、そうして私たちの望んでいるのは神の平安だけであることを思い出させてもらう。それから私たちは、自分の心の中にあるその平安と愛の場所から、自分たちがいま遭遇している状況へと、再び視線を戻す。自らの真の目標(ゴール)についての記憶をたずさえたまま再び戦場に立つとき、私たちは自分がどうすべきかを必然的に認識する。
書籍版p.541~542 電子版p.1109
心の視線を上方に移し、私が望んでいるのは神の平安であることを、思い出させてもらい、再び視線を戻すという練習ができるようになりたいと思いました。
最後に、「赦しの練習」を続ける励みになるところを引用します。
赦すことにおいて成長し、祈りの階梯を上がっていくにつれ、私たちは、愛の現存の抽象的かつ無形なる性質をよりはっきりと自覚するようになり、
[祈りは]いずれは、無形なる状態に達し、神との全的な親交の中へと溶け込んでいく。(S-1.II.1:3)
書籍版p.544 電子版p.1114
今の私は「愛の現存の抽象的かつ無形なる性質」については理解できませんが、赦すことにおいて成長すれば、自覚できるときがくるかもしれないと希望が持てます。
( 2022年9月 by kiseki )

