自己の概念を、取り消してほしい
心について学びたい、と思うにつれて、それに対しての抵抗が出てくるのだということを感じています。
ここ最近、職場で次々と退職者が出ています。この短期間にこれだけの退職者が出るということに、とても動揺しました。
ベテランで仕事が丁寧で早い人たちばかりだったため、これからどうなるのだろうという不安があります。その不安の元へと考えをたどっていくと、私が人々をゲームのコマのように見ていたということが、はっきりと見えてきました。
あの人はこのように動いてくれるから、私はこの仕事ができる。その間に、この人はこう動くから…。無意識のうちにそう決めていて、人々がその通りに動かないと、不満が出てくるのです。私はこんなにあなたたちのために合わせて動いているのに、どうしてそれに合わせてくれないのかと。その通りに動いていないと、さぼっている、自分を下に見ているからだと決めつけて怒りを覚えるのです。
そのことを見ないふりをしてきました。でも、多量の退職者が出ること、その影響が仕事に出てくることが増え、自分の身体にも影響が出始めました。めまいがする。それまでは夜勤中にも不調を感じることはなかったのに、眠気がひどすぎて吐き気がすることもありました。動悸が音が聞こえるほどに強くなり、そのまま倒れるかもしれないと感じました。頭痛がひどく、脳の血管が破れるのでは…と思いました。
静かに見ていると、症状は治まらないけれど、恐れは静まっていきました。自分の身体は、為されたことの影響を被って当たり前なのだということを示しているように感じました。でも、その影響を周囲の人々に感じさせるとき、卑屈な喜びもあることに気がつきました。自分はあなた方のせいでこんなにも苦しんでいるのだと知らしめることで、重荷を渡し終えたような気にもなるのでした。表面では明るく冗談を言いながら、その重荷を、渡したり、渡し返したりしているだけのようにも感じました。その重荷は、殺意でもあると感じました。
自己の概念は、あなたによって作り出される。それはあなた自身とは少しも似ていない。それは、神の子としてのあなたの実相に取って代わるべく作り出された偶像である。世界が教えようとする自己の概念は、その外見通りのものではない。なぜなら、それは二つの目的に役立つように作られているが、心はその一つだけしか認識できないからである。最初の一つが提示しているのは無垢なる顔、すなわち、為されたことの影響を被る側面である。この顔は微笑み、魅力をふりまき、愛するようにさえ見える。それは仲間を探し求め、苦しむ者たちを時には哀れみさえ抱いて見遣り、時折、慰めを提供することもある。それは、邪悪な世界の中にあって自分は善良であると信じている。[T-31.Ⅴ.2]
自己の概念は、恐ろしいです。
この側面は立腹することもある。なぜなら、この世界は邪悪であり、無垢性に与えられて当然な愛と避難所を提供できないからである。それゆえに、寛大にして善良であろうとする者たちに世界が与えるさまざまな不正行為を前にして、この顔が涙に濡れることもしばしばである。この側面は、決して自分から先には攻撃しない。しかし、毎日、数知れない細々とした事柄が、その無垢性に小さな攻撃をしかけ、挑発して苛立たせ、ついにはあからさまな罵詈雑言を吐くまでに至らしめる。[T-31.Ⅴ.3]
認めたくないけれど、それが私でした。
このままでいることは、本当に苦痛で耐えがたいことだと感じました。
概念は学ばれるものである。自然なものではない。学びから離れるなら、それらは存在しない。それらは授けられたものではないので、作り出されなければならない。それらのうちのどれ一つとして真実ではなく、その多くが、恐れから生まれた憎しみと歪曲の熱に浮かされた想像からもたらされている。概念とは、その概念を作り出した者が自分なりの意味を与えている想念以外の何だろうか。概念が世界を維持している。しかし、それらの概念は、世界が実在することを実証するためには使えない。なぜなら、それらはすべてこの世界の内側で作り出されているからである。すなわち、世界の影の中で生まれ、世界のやり方で成長し、最後には世界の想念の中で「成熟」する。それらは偶像たちの想念であり、それらを描いたこの世界の絵筆は、真理を表す一枚の絵も描くことはできない。[T-31.Ⅴ.7]
自己の概念というものは無意味である。なぜなら、ここにいる誰も、それが何のためのものかわからず、したがって、それが何であるかを思い描くこともできないからである。しかし、世界が指揮する学びはすべて、あなた自身についてのこの概念をあなたに教えるという単一の目標に終始している。それにより、あなたがこの世界の法則に従うことを選択し、世界の道を超えて進もうとはせず、自分自身をどのように見ているかを悟ることがないようにしている。今や聖霊は、「心の平安が自分に与えられるためには、自己についてのこの概念が取り消されなければならない」ということをあなたが理解するのを助ける方法を見つけ出さなければならない。また、あなたが何か別の存在だと教えることを目的としたレッスンによらなければ、その学びは取り消されない。そうでなければ、あなたは、自分が今信じているものと交換に、自己を完全に失うよう求められることになり、さらに大きな恐怖が、あなたの中に生じることになるからである。[T-31.Ⅴ.8]
私が学んできた自己の概念を取り消してほしいと思いました。自己の概念が取り消されていくと、自己について、もっとはっきりとわかるようになるのでしょうか。読書会を通して、自分が自己概念Bに、しっかりと張り付いていることを知ることができました。それを知ることができたから、もうそれを望みたくないと思うようになりました。
自分が間違っていたと学ぶことができて、良かった。
間違っていたということを知ることができて、それを訂正することができると学ぶことができて、本当に良かったと思いました。
もしかすると、この概念を闇の中に保っておかなければならない理由は、光の中ではそれが真実ではないと考える者が、他ならぬあなただからではないだろうか。そして、あなたが見ている世界の支えのすべてが取り除かれてしまったなら、その世界に何が起こるのだろうか。世界についてのあなたの概念は、この自己概念に立脚している。それら二つの概念のどちらか一方が疑われるなら、両方とも消え去ることになる。聖霊はあなたをパニックに陥れることを目指してはいない。それゆえに、ただ、小さな疑問を一つ発することはできないかと問うだけである。[T-31.Ⅴ.11]
「それは何のためのものか」と問うことを覚えておきたいと思いました。
「自己概念 対 自己」(T-31.Ⅴ)を、じっくり読んでいこうと思っています。
( 2022年7月 by ひょうたん)

