別の見方

やはり、自我の心を選んでいる時は、どの瞬間も、ハラハラしているのだと思うことがあった。正しい心を選んでいない時には、絶えず、ハラハラしているのだと思う。それが表面に上がってこないだけ。それを投影する機会が、たまたま、ないだけ。

それを、安全、危険、という側面として考察を深めるにはまだ、至らないけれど、今日、あ、と思うことがあった。

まったく、突然に、勤務先のデイサービスが8月で閉鎖することになった。利用者さんも多く、評判もよかったし、利用希望の方の見学の予定も数件、入っているのに・・・。

そのことを知って、まさしく青ざめた。とても動揺した。こんなにも良い条件のところはないだろう。給料は減るだろう。通勤距離は長くなるだろう。週末の勤務は募集していないだろう。平日しか入れなかったら、まるのお留守番が一気に増えてしまう。どうしよう。業務はパソコンだろうか。保険加入はできるだろうか。有給は消化できるだろうか。パートなのに、こんなにたくさんのボーナスはもうもらえないだろう。どうしよう。

そこから始まり、どんどんと妄想が膨らんだ。今、病気になったら、私はもう、途端に収入がなくなる。年金まであと15年もある。どうしよう。

すごくすごく動揺した。それで、慌てて紹介会社に電話をして、職探しを始めた。

やっと、先ほど心を見る、ということをしてみる気持ちが出てきた。それはこんな風だった。

今か、今か、いつか、いつか、と思っていた 死刑宣告の罰 が下ったように 感じているようだった。罰のように感じているようだ。それも、逃げられない罰。とうとう捕まってしまった。もう逃げられない罰。とうとうその時が来てしまった。ここで、楽しかったこの生活は、ばたりと終わりを迎え、罰が訪れた。幕が下ろされたような感じ。

「デイサービスの閉鎖」という知らせを受けて、このように感じた、ということは、やはり、心の中にそのような恐怖心がそれ以前からあったからだ、と思った。いつも心の中に、罰を恐れる気持ち、判決を恐れる気持ち、罰が下されるのを分かっていてそれから逃げたい気持ちがいつもあるからこのように感じているのだと思った。デイサービスの閉鎖、というニュースを聞かなければ、それは表面には上がってこなかった。

「別の見方」ということについて、先日書いた。「これについて別の見方を教えてほしい」と言うとき、私は、これについて、自分の良しとする範囲の別の見方を求めているだけなんだな、と感じたようだった。

デイサービスの閉鎖、これについての別の見方。これを受けて先に述べたように、たくさんの動揺が浮かんできて、罪と罰の概念が浮かんできた。

デイサービスの閉鎖。これについての別の見方。少なくとも、私は今、感じているような気持ちは好まないと決めることはできる、から入っていった。

すると、「別の見方」とはこのことについて、これが良いことだとか、悪いことだとか、このことについてこんないい見方もできるとか、こういう考え方もできるとか、新しい発見ができるとか、このことについてどのように評価を変えられるとか・・・、そういったことではなくて、このことを受けたときの私が、それをどのような心で迎えるのか、ということなのかな、と思った。

そんな風に、ぐるり、ぐるりと考えが浮かんできているうちに、なぜ、デイサービスの閉鎖を絶望的な、悲愴なことへの道筋のように感じられたのか、おかしいなあ・・・と感じられた。それは、新しい生活の始まりで、新しい出会いや、可能性への道筋かもしれないのに・・・と思った。

それは、デイサービスの閉鎖をこんな風な見方もできる、と自分で考えようとした考えではなく、自分の心が「別の見方」について上記のような考えに入れ替わったから浮かんできた考えのように思えた。

不安が顔を出さず、爽やかな気持ちだったように思う。

楽しもう、というような。

( 2022年5月 by maru)