主題概念の代わりに

今日、仕事中に、主題概念を述べるのを避けていることを認識していました。

やっぱり、いやなのです!言いたくないのです!仕事中は、特に嫌です。自分の解釈、見方が正しい、自分で最善の利益を決めて、それが自分にとって正しいと思っているし、ちょっと、わずか数分、立ち止まって心に戻ることをしたくないのだと思いました。

自分が突っ走っているのを中断させられるかのように思っていて、とにかく、自分自身が自分の考え事や、価値観に沿ってしている言動などを中断したくないのです。

そんな激しい抵抗を感じている最中、フォーラムに書かれていた、「この世界のことはよいとして」 という言葉が浮かんできました。

それと同時に抵抗が薄れ、ふわりとした気持ちになったような気がしました。

それで、「この方法で、心に戻って、選び直してみてはどうだろうか?」と思い、それから少しして、次のような考えが浮かんできました。

「でも、、、、、。どうして、私は、主題概念ではなくて、「この世界のことはよいとして」という言葉で心に戻ることを選ぶのだろうか?なぜ、私は、この言葉を主題概念の代わりにすることを選ぶのだろうか?」

それで、答えを見つけたような気持ちになりました。

私は、「この世界のことはよいとして」という言葉を、心に戻らないために、利用しようとして、あれこれと、自分なりに正当化しようとしていたようだ、、、、、 ということです。

このことに気が付いて、本当にハッとしたような気持ちになりました。

すると、今まであれほど主題概念を述べることに抵抗を感じていたのに、この気づき以降は、主題概念と共に過ごすことを選んでいるように感じています。

本当に、私が、全ての具体的な出来事を(今回はこの言葉を)、、、、、どのように解釈するのか、ということが全てなんだなあ、、、と思いました。

その言葉、その出来事に初めから正解の意味はなくて(決められた意味はなくて)、自分が、色々なことをどのように解釈すのか、ということが全て、、、、、

ということは、それは目的ということに役に立っている、と思いました。

なぜ、私はそのように解釈したいのか。

それは、心に戻らないために。

解釈を手放すことを選ぶならば、その目的は、心に戻るために?選び直したいために?

このあたりは、あせらないで、ゆっくりと確かめていけば良いのだと思いました。

(2022年6月 by maru)