「正しい心」的な見方
長年の課題がひと段落ついたので、その慰安として、先日家族旅行に行ってきた。
今まではずっとその課題が付き纏っていて、純粋に楽しむということは叶わなかったが、久しぶりに遊んだような気がした。
しかしいつものことであるが、旅程の最終日になると日常という戦場が、心の中に擡げ始めて、平安が葛藤に変わり始めていた。
この夢のような時間に留まり続けていたい、そう思い苦しくなってきた。
このことに関連して、「
V#18: 象徴としての美」を復習してみた。
私たちの誰もが、この世界の中で素晴らしい体験をしたことがあるはずです。
ですから、「これを楽しんではいけないのだろうか?」という疑問が湧きます。
私も葛藤を感じながら、この旅行という素晴らしい体験とどう向き合うべきか、疑問が湧いた。
もちろん、それらを楽しむことを、うしろめたく感じたりする必要はありません。
けれども、それについて、「正しい心」的な見方があります。
それにより、言わば、「両方の良いところを享受する」とでも言えることが可能になります。
それらを楽しむことを、うしろめたく感じたりする必要はない、夢の世界での体験に対する「正しい心」的な見方がある。
ですから、人が素晴らしい大自然の中で何らかの美しい体験をするなら・・・
『奇跡講座』の中には、それを楽しんではいけないとか、感動したり感銘を受けたりしてはいけないなどといった文言は一つもありませんが・・・ただし、あなたが認識すべきことがあります。
それは、「自分が外側に経験しているものは、自分の心の中に存在する内的状況の投影または延長である」と認識することです。
体験に対して「自分が外側に経験しているものは、自分の心の中に存在する内的状況の投影または延長である」という見方で認識する。
これはワークブック解説でも何度も繰り返し述べられている内側の原因と外側の結果を関連づけてみると同じだ。
換言すれば、もし私が美しい芸術作品を見たり、素晴らしい音楽作品を聞いたり、大自然の美しさに触れたりして、感動するとき・・・
それが反映しているのは、私が「正しい心」の観点から美しさを選択しているということだと、認識するということです。
「それが反映しているのは、私が「正しい心」の観点から美しさを選択しているということだと、認識する」このような認識はあまり持つようにはしてこなかった、葛藤を感じた時自我を選択しているという自覚を持つよう努力しているが、素晴らしい体験を聖霊を選択しているということに結びつけて見るということも、必要だと感じる。
もし、内側にあるこの素晴らしく美しい感覚を得るために、外側の何かに依存することを自分に容認するなら、困ったことになります。
なぜなら、それは単に、<特別な関係>をもう一つ作り出すという結果になるだけだからです。
素晴らしい体験は甘美なもので、以前はとにかく休みの日は何処かに出かけたり、心の欠乏感を忘れさせてくれる形象を求め彷徨っていた。しかし、必ずその終わりには日常に戻ることへの恐れや葛藤を感じていた。それは依存であり、特別な関係であったことを自覚する。
けれども、もし、外側の自然の美しさや芸術的な美しさを、内側にある美しさを思い出すために使って・・・
そして、その美しさと一体感を抱くなら・・・
私は、その美しさを、バラ園の中を歩いていようと、雑草畑の中を歩いていようと、感じることができます。
その日の天気によって、外に出て自然の中で素晴らしい一日を楽しむことになろうと、家の中で一日を過ごすことになろうと・・・
私は依然として、その美の感覚を内側に感じていることになります。
そういう意味では、私たちはこの世界の美しさを必要としています。
外側の自然の美しさや芸術的な美しさを、内側にある美しさを思い出すために使って、形態にとらわれず美の感覚を内側に感じるという体験をするために、私たちはこの世界の美しさを必要としていると、ワプニックさんは明確に言っていることに、ハッとした。
今まで甘美な美しさは、魔術として忌むべきものと認識していた。しかし、それをこのような形で、内側にある美しさを思い出すために使うことは必要なんだと感じた。
これが夢の世界での体験に対する「正しい心」的な見方、私たちは実相世界に戻るために、葛藤も素晴らしさも全て同じ教室として、必要としている。
(2022年4月 by ようすけ)

