矛盾
冊子「聖霊のレッスン」48-56ページを読んで、以下のところが印象に残りました。
「あなたと私は異なってはいない」と伝えるということの意味をもう少し具体的に言えば、「あなたが何を言おうと何をしようと、私はあなたを攻撃しない、裁かない、咎めない、怒らない」といったことに相当します。ただ、相手をありのままに受け入れるということです。それは、すでに述べたように、自分と同じように、相手にも「<正しい心>と<間違った心>があり、そのどちらを選ぶ力もある」ということを受け入れる、という意味でもあります。
「聖霊のレッスン」52ページ
これを自我の思考体系と一体化している私の感覚から見ると、とてつもなく隔たりがあって困難なことに思えます。
自分を攻撃しているかに見える相手を、「ありのままに受け入れる」聖霊の見方で見て、相手に「あなたの攻撃は何の結果ももたらさなかった」ということを示す。
私が相手を問題の原因と見ることで、失われてしまう心の平安…
それを赦しに取り組む動機として、心の中の罪悪感を見て、相手を違った見方で見たいという意欲を聖霊に差し出す…
しかしそこに自分を犠牲にしている、我慢しているという感覚が伴ってしまいます。
つまり私は自分が一人の特別な個人という個別性は保っておきたいけれども、自分が感じている苦しみは取り除いてもらいたいと思っているようです。
私は善良な人間で、被害者で、相手が悪い、世界が悪い、だから神様助けてと思っています。
誰かとの間に葛藤が起こっているとき、「絶対に自分は悪くない、あの人の方が間違っている」とか、「こんなひどい扱いを受けて黙っていることはできない」とか、「自分をこんな目にあわせた人を憎むのは当然」などといった感覚は、私たちには、「それなしでは生きられない、これだけは絶対に手放せない。これがなくなったら死んでしまう」と思えるほどのものです。そういう意味で、まさに中毒のようなものです。
「思考の逆転」62ページ
私がこの世界で学んできたすべてのことは、「自分と他人は異なっている」という揺らぐことのない前提に基づいたものだと思います。その上で、ものごとへの無数の区別、良し悪しを学んでいて、物事の価値を判断しています。そこに今、虚しさと疲労を感じています。
しかし、苦しみを感じていても、それをすぐには手放せない自分がいるようです。
(2022年7月 by yukihide)

