これが「内的状況の外的映像」なのかなあ?

コロナ感染のばたばたの中で、夫の「構ってほしいアピール」に辟易しつつも、今の私に出来得る限りの正直さで〈赦し〉に向き合うように努めた。

そして、今朝、うまくタイミングが合ったので、夫の布団を短時間だけれど干して、寝室に掃除機をかけ、ざっと拭き掃除をして、換気をすると、彼はとても嬉しそうだった。

私はこれらのことを、嫌々するというのでなく、ごく自然に、すんなりと、心に浮かんでくることの波に乗って、サクサクと効率よく行なっていた。

私に聴診器で胸の音を聞いてもらった夫は、「今年一年で一番うれしい!!」ととてもうれしそうだった。

検温をして、ざっと全身状態を確認してもらうととても満足するようで、私も何というか、そうしたことを嫌々するのではなく、もしかしたら優しさで行っているのかもしれないなあ・・・と思えた。

今朝はまったく苦にならなかった。昨日はあんなに疎ましく感じていたのに。

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ところで、今、こうして、書きながら浮かんできたことだが・・・

彼の布団を干したり、掃除をしたり、検温をしたり、こまめに声をかけたりすることをごく自然に、何のためらいもなく、サッと軽やかに私は行なったわけだが、これは、この世界レベルでの事態の好転、なのだろうか?

それともこの世界レベルでは何も事態は変わっていないのだろうか?

変わったのは、私の心だけなのだろうか?そうかもしれない。けれど、私にはまるでこの世界レベルで事態が好転したかのように、気分が良い。状況は変わっていないのだけれど、彼を疎ましく思わない、何の縛りもない、私の心が変わっただけで、こんなにも気持ちが軽やかになるものだろうか?

こういう考え方をするということは、私は、この世界レベルで事態が好転することが私を良い気分にさせる、と信じているということだと思うが・・・・

この世界の事態が自分にとって好転した時よりも、何も変わらなくともこうして自分の心が変わる方がずっと軽やかで、軽やかさの種類がまるで別物のように感じられる。

(2022年11月 by maru)