「赦し」の重み

ある映画を観た。

外観的には音楽映画だったが、その中味は深い深いドラマだった。少なくとも私にはそう感じられた。人間とは何か、民族とは何か、個人の存在とは何か、神とは何か……。
第二次大戦中のユダヤ人のホロコーストが、映画の副次的なモチーフになっていた。

ワプニック先生の「赦すけど忘れない」から引用する。

「確かにあなたは、不道徳で罪深く酷いことをしましたが、私は赦してあげましょう。でも、私はこのことを決して忘れませんからね」というものです。そのような見解を正当化する理屈の一つが、「もし私や世界が、あなたのしたことを忘れたなら、私たちはまた同じ過ちを犯すことになりかねません」というものです。それは、例えば、多くのユダヤ教徒たちやユダヤ系の人々がホロコーストについて言っていることです。「私たちは赦しますが、忘れません。私たちがそのことを忘れれば、再びそれが起こるからです」と。

小冊子「赦すけど忘れない」P9より

そしてワプニック先生は続けて言われる。

この見解がなぜうまくいかないかについて、『奇跡講座』は非常に明確にしています。

そう、「赦すけど忘れない」は「うまくいかない」のだ!!

……と私は今まで字面で読んでいて、分かったつもりになっていた。しかし、実際に映画という映像でその生々しさを体感してみると、話はそんなに簡単なものではないということが痛いほど痛感された。

日本人指揮者の朝比奈隆は存命中に言ったそうだ。

ヨーロッパ人の持っている痛切な感情というのはたいへんなものなんです。『胸張り裂ける』なんて言葉がありますね。

あるいは、音楽評論家の中野雄さんの文章の中から引用すると、

人生とはつらいものである。人の心とは哀しいものである。宗教や芸術は、「それが故にある」。知ってはいても、実例を眼にし、耳にすると、やはり身の置きどころのないいらだちに身を苛まれる。ユダヤ民族は二〇〇〇年の永きにわたり、故郷なき民、少数民族として苛烈な迫害を甘受して来たが、その心理が逆作用として働き、他の少数派に対して寛容という心の扉を閉ざす行為がしばしば見受けられる。外敵に対して、身も心も無防備なわれら大和民族には論評を許されない世界である。彼等はそれだけ重い過去を背負い、歴史を生き抜いて来たのであるから。

文春新書・新版クラシックCDの名盤演奏家篇P414より

奇跡講座は人類にとって普遍的な教えであるが、直接的には西洋社会宛てに届けられた。そして、その西洋の社会の「痛切さ」や「重み」は本当にハンパないものであるということが、今日の映画鑑賞で実感された。

「♪赦しを気軽に楽しく~」とか「♪みんな一緒に手をつないでつながりましょう~」なんて甘い世界では断じて無い。ちゃんちゃらおかしい!奇跡講座はそんな教えでは無い!!奇跡講座は文字通り身も心も張り裂けんばかりの痛切な傷みを持ったこの世にもたらされたんだ。そう捉え直してみると、今まで言われていた「赦し」の重みが全然違う。

奇跡講座の形而上学的にはこの世は存在していない。そして問題に難易度の差はない。ユダヤ人のホロコーストだろうが、幼児同士のケンカだろうが、全く同じレベルの問題だ。しかし、私たち人間が、世界を深刻に捉え、この救いようのない序列のある世界を作り出しているのも事実だ。正確に言えば、形而上学的には事実ではないが、私たちは事実だと思っている。

この悲劇的な世界の重みを持ってこその、奇跡講座の赦しの教えであり、ある意味厳しい、妥協なき非二元論の教えなのだと思った。そして以上を踏まえた上での、「深刻にならずに」「笑うことを忘れないで」なのだと思った。そして、自分のすることとしては、一日本人として、自分に与えられた環境で、その日その時の問題を、逃げずに直視していくことかな、と思った。

(2021年12月 by DTA1973)