どのように見えようとも
地域福祉の活動でご一緒していた方が亡くなりお通夜に参列した。少し脚の不自由な温厚なおじさんというイメージだったが、現役時代はいわゆる社会的地位のとても高い方だったと知り、その方への自分の持つ印象の変化に愕然としている。自我のフィルターを通して見る、とか特別な関係、とかの言葉がグルグルする中、その方のいろんな人との関わり方に想いを馳せた。
とても面倒見が良く、誰に対しても温厚で誠実に接せられた姿からは、組織の中でたくさんの部下を抱えておられたことなど微塵も感じられなかった。この人を上司にもった人々は幸せだったろうな、とも思った。と同時にすべての人は「ヒトラーでありイエスである」「加害者であり被害者である」という言葉も浮かび、社会的地位の高い低い、温厚激情、誠実不誠実、良い悪い…差別意識やいろいろな分離の想念に囚われていることが浮かんできた。
この状況、この関係から赦しを学ぶことができるように聖霊に祈りつつ、これまでの感謝の気持ちを込めてお別れした。私もこれから人と関わるときには、少しのことですぐに動揺させる自我のフィルターを通してではなく、少しでも聖霊の心眼に近づけて関わることができるように、切に聖霊の助けを求めたいと思う。そして、形態でどのように見えようとも、やはりすべてが同じ幻想で実在しないということも覚えておきたいと思う。

