罪悪感のキャッチボール

切片(自己概念Bとしての私)の中にも、神を犠牲にして(あるいは襲って、殺害して、奪って……)、その罪と罪悪感を投げ出したいのに投げ出す先がないため、自分を2つに分け(自己概念BとC)、Bの方と同一化して無罪を装い、Cにすべての罪を着せ、罪と罪悪感から逃れようとする、という妄想的ストーリーがある。そして、それが今、Bである私と、自己概念Cとして見えている兄弟の間に起きることと、その周辺世界に分かりやすく投影されている。

このところ、自分の言動を即時振り返って、「おお、これが『無垢なる顔』か!」と嫌な汗をかくときが何度かあった。赦していくと、自分が罪のない犠牲者であると思いたくて、BとCに演じさせている者であるかのように感じたこともあった。

いや、実際には、Bとしての私は、むしろ演じている者のようだ。「こんなこと、Cに言う必要がないのに」とか、「何のために、私はこういう行動を取っているのか」と、Cとの間に起きることで疑問に思ったことが度々あった。疑問に思いながらも、積極的に自我を選んでいるのだ。

「今も間違って選んでいる」ということに注意を向けると、Cのものにした罪と罪悪感は実は私のものだったよねと、うっすら思い出したかのような感覚になった。その私は今はBになっているので、いないことになっている。

怒りの感情がものすごく出てきたときは、もちろん自己概念のことなど気にしていない。(というより、自分はB以外の何ものでもないと思っている、と言ったほうが近いのか・・・)そういう強い感情が出ているときは、もしかしたら、思い出しかけたことを再度忘れようとしているときなのかもしれない。そうしないと、自分のものであると思っている罪と罪悪感の実在性に疑問を持ち始めてしまうから。

実は昨年の11月から、ずっと同じことでCのことを赦し続けているので、何度も別の見方ができるように助けを求めていた。(その3分の1ぐらいは、「イエス、聖霊!これをどうやって赦せと!?」と憤慨しながらだったのだが)

一人の兄弟を同じことで赦すと言っても、その中身はバラエティーに富んでいたりするものだが、この件は、あきれるほどピンポイントに同じことが赦しの対象になっている。だからなのか、私とその兄弟で罪悪感のボールを投げっこしているうちに、「何か変な感じ」と思うようになり、心の中で注目する部分が違ってきたのかもしれない。そして短期間のうちにあまりにも頻繁に同じことを赦すので、「このボールって、どこから出てきたの?ホントにあるの?」と思い始めたのかもしれない。

いまいましいが、これは、自分が間違っていたと認め聖霊に訂正してもらうチャンスだ。

視点を変えて見てみれば、その兄弟にとって私は自己概念Cの加害者だし、私たちを取り巻く人たちも含めれば、2人とも加害者になったり被害者になったりを忙しく繰り返す存在だ。


この出来事とその兄弟との関係性が波紋に見えて、その周りに他の兄弟や出来事などの幾つもの波紋が広がり、重なり合って、事態は込み入っているように見えるけれど、今では、その原因がどこにあるかをしっかり教えてもらったような気がしている。

だからこの素晴らしい教室と課題をほったらかしにせず、引き続き赦しに向かいたいと思う。


……と言いながら、「このうんざりする教室と課題をほったらかして、自分が投げ出したものを見ないでいたい」という裏の気持ちもあります、
正直に言えば。(^o^;)

(2023年1月 by Susan)