ゆっくり開く扉

私が心を見ていく時に注意しているのは、自分で主導しない、ということです。今見れるところを見ていくだけでいい。浮かび上がってくるものに心を開くだけでいい。ということです。

これを私から取り上げ、それを見て、代わりに判断してください。

 私がこれを、罪と死のしるしとして眺めたり、破壊のために用いたりすることがありませんように。

 どうすれば私がそれを平安への障害とせずに、あなたによって私のために使ってもらい、平安の到来を早められるかを、教えてください。[T-19.IV.C.11:8-10]

この祈りの言葉を例にして言うと、「これを私から取り上げ」で、自分の心の反応を見ます。そしてその次の「それを見て」で自分の反応を見ます。必ずなんらかの抵抗を感じているのを見逃さないようにします。この祈りの言葉と真逆の思いが自分の中に必ずある筈なのです。ほんとに抵抗なく実感を持ってこの祈りの言葉通りのことを言えるなら、すでになんの葛藤も問題も感じていない筈だからです。

また、抵抗を感じられるということは、自分の心が実感を持ってこの祈りの言葉を述べているということです。この言葉と同じ思いが心に感じられるからこそ抵抗が生じます。つまり、私はこのテキストの文言によって、自分の分裂した二つの心を意識化していくことになるのです。

そして、一つの文言から次の文言へと、奥へ奥へと扉を開いて行くのです。次の文言へ移る時に、新たな抵抗を感じます。無理に扉を開こうとせずに、少しずつ心を開いていきます。無理に行こうとすると、せっかく開きかけた扉をパシャんと閉じてしまうことになります。今は無理だと感じたら、先へ行こうとせず、微妙に開いたままの状態を維持したまま待ちます。深く罪悪感を投影してしまった事柄に対しては、微妙に開きかけの扉を閉じないことだけを心がけ、ゆっくりゆっくり開いていきます。そうして、二択というものが深められていきます。

そのプロセスの中で、まずは投影対象が救済者であるというのが明確になってくるように思います。自分の恐れの対象は自分が相手に被せた姿だとはっきりしてきます。罪と恐れのしるしとしての相手か、救済者としての相手かという二択。恐れから救い出してくれるのは、救済者としての相手以外にありません。罪悪感の投影対象が実は罪悪感からの救い主だったのです。

そして、そこにあると思っている罪悪感、より根源的な罪悪感は、さらに深く、それに触れるには救済者である友(罪悪感を投影していた対象)と共に赴くのです。友と共により深くにある二択へと赴いて行くのだと感じています。

 ( 2022年7月 by pallaksch)