神との関わりを癒す

3年ほど前に、壊れてしまった友情がある。

彼女の言動にイライラして、遠回しに批判したり、距離をとったり。

彼女からも、私に対して皮肉めいた発言があり、私と同じように距離をとったようだった。

20年以上親友だと思い、ママ友としても、同僚としても支え合う仲間だったのに、

ひとつのプロジェクトへの意見が、お互い全く異なったことから気持ちにずれが生じ、

私の退職を機に、関係が消えていった。

彼女が住んでいるあたりには、絶対に車で通ることはなかったし、

たまに息子から彼女の子どもの話が出ると、聞きたくなくて顔がこわばった。

彼女が買い物をしそうなお店にも、立ち寄ることを避けていた。

それが面倒で苦しくてたまらなかった。

どうしていつもいつも避けていなければならないのだろう。

私はここに住んでいる限り、一生彼女を避け続けて生きていかないといけないのか。

彼女の存在に怒り、おびえ、逃げ回って暮らしていくのか。

本心をいうと、彼女とまた会って、以前のようにおしゃべりしたかった。

彼女から嫌われて、もう会いたくないと思われているだろうけど、

新しく始めた介護の仕事のこと、母の死のこと、息子のこと、

老いを重ねていくこと、生きていくこと・・・、

そんなことをいっぱい話したいと思った。

でも、連絡することはできなかった。

怖かった。

自分から無理やり、引きちぎってはいけない綱を引きちぎってしまったという罪悪感があった。

「あっちから連絡がくれば、話をしてもいいけど」

こちらから連絡するのは、何か、負けることのように感じていた。

プライドが許さなかった。

意地を張っていた。

あなたは、聖霊の導きを求めることは剥奪感を求めることだと信じている。[T–11.Ⅷ. 6:6]

あるときフッと、「負けていいじゃん」と思った。

「友だちだもの、やっぱり大事な人なんだもの。それでいいじゃん。

彼女がどう思っていてもいい。嫌われたままでもいい。

ごめんねって謝って、心のなかではずっと友だちだと思っていたって伝えればいいじゃん。

送ったメールを彼女がどう受け取ろうと、それは彼女に委ねて、

私は素直に自分の気持ちを伝えよう」

そう決めたら、心がスーッと軽くなった。

息をせばめていた緊張感から解放された感覚だった。

彼女が自分に怒っていたとしても、どうでもいいような、私とは関係のないことになっていた。

そう決めた2~3日後、昼食中に携帯を見ると、

驚いたことに彼女からの着信と留守電がはいっていた。

あわてて確認すると、カサカサとこすれる音がするだけ。

「あー、間違って発信しちゃったんだなー」と、ホッとしたり、ガッカリしたり。

でも繋がったようで、嬉しかった。

翌日、彼女から「間違って電話してしまいました。ご心配かけてすみません」とラインが来たので、

それをチャンスと、これまでのことを謝り、また会っておしゃべりがしたいと返信した。

彼女から「私も実はそう思ってた。お互い、意地を張り過ぎたよね」と返事が来た。

穏やかな安堵の感覚が、じんわりと胸に広がっていった。

本当はもっと早く、苦しみを手放すことだってできたはず。

だけど、私は苦しむことを選択していた。

自分の中から愛が流れ出るのを恐れ、愛が流れていくと減ると怯え、聖霊からの助けを拒んでいた。

自分の苦しみに閉じこもり、神(愛)を拒否することが、自分の勝利だと信じていた。

牢獄の中で、お子様ランチの旗を鼻息荒く、得意げに振っているようなものである。

あちゃー、でござる。

したがって、最も扱いにくく、最も問題のある人々が、私たちにとって最大の贈り物となります。というのは、私たちがそういう人々との関わりを癒すことができるなら、その時、実は、私たちは自分と神との関わりを癒していることになるからです。『奇跡講座入門』p144

ただただ、感謝です。

( 2023年11月 by  jasmine)