葛藤の源とは…

『聖霊のレッスン』P20~P30を読んでの感想です。

(A.1:6-7)
死とは、何も決断しないことにより葛藤を解決しようとする試みである。自我が試みる他の不可能な解決法と同様に、それはうまくいかない。 

私はこの決してうまくいかない葛藤の解決法を試みてきたのだと(いるのだと)、それが「死」であり、「無」なのだと、今更ながらハッとしました。
そして、この聖霊の救済への導きが、今まで以上に深く心に響きました。

私は自分と神との関係性を夫に投影して、心の中で夫をとても恐れています。
夫が私の罪深さを知ったら(神が大勢の中に隠れている罪深い私を見つけたら)きっと激怒して、私をここ(家・天国)から追放するに違いない。絶対に赦してはもらえない。
私は見つからないように、どこかに隠れていなければいけない。
だから夫が私の罪深さを知る前に、私は夫を亡き者にしなくてはいけない。

夫とこの世界では普通に接しながら、自分の心の中を覗き込むと、そんな恐れが渦巻いています。
居ても立っても居られなくなるような恐れ。


約4ヶ月程前の夜、かなり衝撃的な夢を見ました。

それは白黒映画のワンシーンのような夢でした。
広い草原にたくさんの屍が横たわっていて、その片隅に夫の死体がありました。
けれど、夫の死体は死んでいるのではなく何か叫んでいました。心の悲痛な叫びのようでした。
その声は低く太くしゃがれていて、激しい怒りと憎悪、虚しさ、絶望感が漂っていました。

目が覚めて、夢で良かった!と心底ほっとしました!

「葛藤」というのは、「神から分離したと思ったことにより、神との間に生じたと信じられている「葛藤」のことです。(そしてそれが、世界のレベルに現れている無数の葛藤の源です。)その「葛藤」を解決するには、そうした葛藤があると信じている「自我の思考体系」自体を手放すという決断をすることが必要であるのに、その決断をせずに、そのかわりに、神から離れたままで、神の怒りから逃れようと試みているのが、自我です。そうした試みが、ここで「死」と呼ばれています。
『聖霊のレッスン』P30

私は「神からの分離」を望み、「神からの分離」を信じる決断をし、神から離れたままで神の怒りから逃れようと試みている。それが自我。そうした試みが「死」。

あの夢の中の夫の死体は私なのだろうか。生きもせず、死にもしない、ただ「無」である…。
それを「生命」だと妄想しているだけなのだろうか。
あの叫びは、私自身の「愛を求める声」なのだろうか。

(A.1:3)
すべては生命を通して達成される。そして、生命は心に属し、心の中にある。

この真理が、心に響きます。

あの夢を見た後、私は、

私は苦痛の代わりに神の喜びを選択する。[W-pⅠ.190]

私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。[W-pⅠ.196]

この主題概念の練習に励んでいます。レッスンへの半端ない抵抗を感じ、それを真理の光へと運んでいます。

数日前、布マスクを手洗いしながら夫への感情を感じていたら、ふと、内側から「自分で決断した」という声(聖霊の見方)が湧き上がってきました。その瞬間、一瞬だけ平安に満たされました。

この平安を動機として、イエス先生に導かれながら、また、一歩一歩、この学びと赦しの実践の道を、みなさんと歩いて行きたいです。

(A.1:5)
私たちが同じ心を共有しているのであれば、私が死を克服したのだからあなたも死を克服できる。

( 2022年7月 by なお )