自我の思考を選択している自分
私は(小冊子「聖霊のレッスン」を読んで)以下の部分がとても印象に残りました。
そして、[T-6.Ⅴ-A.2:2]には、「肉体は、あなたが自分は何であると考えているかを象徴するもの」という興味深い言葉が出てきますが、ここでも、「あなた」というのは「肉体」そのものではないという前提で語られています。「自分は何であると考えているか」を象徴するものが「肉体」であるのなら、そのように考えている「自分」とは、「自我の思考体系と同一化した自分」ということになりますが、さらに、それとは別に、もう一つの「自分」として、「その自我の思考体系を選択している自分」が想定されています。そのもう一つの「自分」とは、「心」であり、すなわち、これが、選択する力のある〈決断の主体〉としての「心」だということがわかります。(p.32)
最初は、「自我の思考体系と同一化した自分」と、「その自我の思考体系を選択している自分」の表現を「どこが違うの?」という感じで読んだのですが、何度も読んでいるうちに、自我の思考体系を選択しているというところに、そうだったのか~!と思ったのです。
今まで何度も、選択は「自我の思考体系を選ぶ」か「聖霊の思考体系を選ぶ」かの二択だと読んでいたのに、今回は新鮮に自分の中に入ってきました。
「その自我の思考体系を選択している自分」という言い方は、「心」で「選んでいる、そして選び直すことができる自分」なんだと気づいて、うれしくなったのです。やっと本当に、「自分で選べるんだ」とわかった感じでした。
「自我の思考体系と同一化した自分」というものは、「自分と自我がべったりと張り付いている」、と加藤さんが講義室でそう表現されていたそのもの。
それに対して、「その自我の思考体系を選択している自分」という表現は、「自分」と「自分が選んだ自我の思考体系」の間に、少しだけすき間が感じられます。
そのほんのちょっとのすき間に、大きな自由を感じました。
今までテキストなどで「自分が病気やこの出来事を選んだ」などという文章を読んでいるときに、責められているような感じがして「全然覚えていないのにそんなこと言われてもわかんないよ」と思っていました。
でも今回じっくりと読んだことで
もう一つの「自分」として、「その自我の思考体系を選択している自分」
があるってことは、「自我の思考体系を選んだ自分に気づいて選択を取り消す」ことができる。
やっと意味がある、自分について書いてある言葉として、理解できた気がします。
(2022年7月by peko)

