本当につながるということ

今朝、愛犬のまるが私の膝の上にあごをのせて、ゆっくりと目を閉じてスヤーっと寝て、そのおでこを撫でると一段と気持ちよさそうにするのを見ながら、軽い体重を膝に感じていました。

何が気持ちよいのか。

やわらかい、まるのふわふわの、けれど、しっかりと充実した毛並みに触れるのが気持ちいいのだろうか。

まるの、人間よりも少し高めの体温を感じるのが気持ちいいのだろうか。

それとも、その姿、可愛らしさを気持ちよく感じるのだろうか。

何が、そんなに、私を気持ちよく感じさせているのだろうか。

一つひとつ、を、感じていきました。

一つひとつを感じていくと、あるところで、ぶつかったように思います。

底でぶつかったように感じたのです。

まるの毛並みも、温かい体温でも、寝息の可愛らしさでも、そういうことが、私を気持ちよい気分、、、、、、快、、、、、、、の気分にさせているのではなかったのです。

私を気持ちよい気分にさせているのは、以下のようなことでした。心をたどっていくと、ぶつかったのはこういう感じだったと思います。

「。。。。。。まると、密着している、この皮膚の一体感。。。。。一体感が気持ちいいのだろうか。。。。。。。。。。。。。。。一体感。。。一体感を、代用している感じ。この一体感で、満足する感じ。。。。。。。。一体感への満足。。。。。。。。。。とりあえずの満足感。これが気持ちいいんだ」

それは、はっきりとした考えのようでした。

心としての私の考えをはっきりと見たような感じでした。

「とりあえず、一体感を代用しよう。一体感を代用できればそれでよい。この世界で、一体感は手に入る」

肉体としての私は(自我を選んでいる私は)、このことに気が付かないふりをしているように思いました。

そして、心の奥に入っていくようにゆっくりと進んで行くことを試みました。

すぐに、こう思おうとしている状態、心に入っていっていないのに、「こんな風に思っているんだ」と、
表層の意識が思おうとしていることに気が付きます。

それを見て、さらに奥に進んでいくようにチャレンジしていました。

しばらくすると、こんな考えが浮かんできました。

「まるのことを、私の罪悪感を投影せずに見ることができるとき、その役割をまるにさせないとき、その時には、、、、、、正しい心で私がまるを見るとき、それがまるとつながる、ということになっているのではないか?」

罪悪感のない心でまるを見るとき、、、、、って言っても、それは私には無理なのです!!

私が、この心で、罪悪感のない心でまるを見るということはできないのです。それで、正しい心を選びたい、選んだとしても、その心で見ることができるのは、正しい心を選んだ決断の主体の私ではないように思いました。

正しい心を選んだ決断の主体の私に、聖霊がつながることで、その思考体系とつながることができ、それを私の心とすることができるのではないか、と思いました。

正しい心を選ぶとき、選んだ私が主導することはできなくて、正しい心にいるということは、聖霊の思考を私の心に流してもらうというか、先導するのは聖霊なのだな、、、と思いました。

正しい心でまるを見る、ということは、つまり、それだけで、、、、正しい心を選んで、その心でまるに向かうだけで、まるにつながっているのではないか?と思ったのです。

正しい心を選ぶ、ということは、聖霊につながるということで、聖霊につながるならば、本当のまるにつながることになると思ったからです。

反対に、間違った心でまると接触している時、それがどんなに、密着していても、それは分離を強化して、どんなに接触していても、まるとつながることはできないんだなあ、分離しているんだな、と思いました。

(2022年7月 by maru)