もし身近な人が、そのような目にあったとしても
先日、夫と御飯中にあるニュースを知りました。
やや興奮気味に話す夫に合わせるように相槌をうったり、うなづいて見せたり、おぞましいというようなポーズをとってみせたり、夫の意見に同意して見せたり、そのように夫の話に合わせてしまいました。
それをした理由は、正直に言いますとやはり、「夫と会話を円滑にするには、私がそのように応答する必要がある」「夫は『奇跡講座』を学んでいないから、私がこの件で抱いた本当の気持ちを夫との会話の中で述べても、夫が不快になるだけだから、夫とコミュニケーションを取るには、夫の思考に合わせる必要がある」「私の本当の気持ちを述べて、この場の空気がおかしくなるのを避けたい」というものでした。
それから、もちろん、ニュースを聞いた瞬間に、自我の思考体系で判断したことで、夫との会話を自我の心で開始した、ということも理由です。
そうしている途中で、自分のしていることに気が付きましたが、自分の言動は変えることができず、終始、「ひどいね。大変なことが起こったね。心配だね。犯人は?捕まったの?」などと応答していました。
心の中ではこのように言っていました。
「私は、今、この世界に実在性を与えているのではないだろうか。このことにのめり込んでいる夫に合わせて、自分もそのように振る舞うということは、夫の思考体系を支持しているということではないだろうか。自分が、正しい思考体系を選んでいながら、自我の思考体系を支持することなどできるのだろうか。そんなことできるはずがないではないか。私が、まずは正しい心に戻らなければ、、、、」
そうして、夫の話を聞きながら、同調して見せることはついに止めることができないまま、心の中で聖霊の光の元に、差し出していました。
その後、夜も遅くなり、私にこのような考えが浮かんできました。
「犯人を、神の子として見ることができるだろうか」
「愛されているものとして、見ることができるだろうか」
「罪のないものとして見ることができるだろうか」
「そのように、見たいだろうか」
「自分の身近な人が、そのような目にあったとしても、犯人をそのように見たいだろうか」
「自分がそうなっても、そのように見たいだろうか」
自問するだけで、それ以上心の中に入っていけませんでした。
それで、最後はこんな考えになりました。
「そうするしかない。そうする以外、救われない。そうする以外には、どう考えることもできない。そのように見ることはできていないけれど、でも、それ以外に選択肢はない、、、、、。」
ここまでしか心に入っていけませんでしたが、今はその気持ちに向き合おう、と思いました。
(2022年7月 by maru)

