心の動きを見る

母方の祖母は昭和初期生まれで90歳を過ぎており、昨年、大正生まれの祖父を見送ってから、だんだんさまざまなことができなくなってきた。

私の母はすでに亡くなっており、祖母と同居している叔母は朝早くから夜遅くまで、仕事のため留守で近所に住む孫の私が買い物のお手伝いをしたり通院の介添えをする。

小さいころ祖母は、母がパート中に私を預かってくれたり、学校の行事に来てくれたり、お小遣いをくれたり、とてもよくしてくれた。祖母というより、もう一人の母のようだった。

祖母が、今どんどん小さくなって弱弱しく見え、「もう生きていたくない」などと弱音を吐くのを受け入れられなくて、なんともいえない気持ちになる。

祖母が助けが必要な時にそばにいて力になれることが幸せなことだと思いながらも、いろんなことが一人でできなくなる祖母にいらだったり、恐怖を感じている。

兄や従兄弟たちは遠く離れて暮らしていて、私ばかりが通っていることもつらく思える。

また、そんなことを思う自分はひどく薄情で利己的だと、自分で自分を攻撃してみたりしている。

この苛立ちや怒りや悲しみ、やるせなさは、自我を選んだ私が、心に戻らないままでいるという目的のために使っている。

現状や祖母の様子など、知覚している事柄が原因ではない。

とにかくイエスに、聖霊に、助けを求めて共に見てもらえるように祈る。

自分が一人ではないことを想いながら、湧き上がる暴力的な不快感を、じっと見つめてみる。

この世界で自分の肉体を自分で動かせることが、何よりも大事だと感じるのは、自分は肉体であり、肉体が実在するものと信じたいからなのだろう。

あなたの為すべきことは、愛を探し求めることではなく、ただ自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことだけである。

(T-16.Ⅳ.6:1)

自分一人では本当には何も「できない」ことを、その都度思い出させてもらいながら

ささやかな意欲が持てるように、じっくりゆっくり、取り組んでいきたいと思う。

( 2020年1月 by カラコル)