聖霊につながることができれば
ワプニック先生の「赦すけど忘れない」(第11回)を読みました。
「赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。・・・それはただ見て、待つのみであり、判断はしない」のです。(「判断しない/裁かない」というところが最も重要です。)
「赦すけど忘れない」第11 回、書籍『赦すけど忘れない』96ページ
このことについて、今の学びの段階で私が感じるのは、こんなことです。
「聖霊につながっていないときには、この世界的に、一見うまくいこうが、間違っていようが、どちらもそれは最善の結果ではない。誰にとっても、最善ではない。
その理由は、聖霊につながっていなければ、私は必ず、罪悪感を投影してしまうから。一見、どのように最善を尽くして働きかけたとしても、どんなに思いやって行動しているつもりでも、一見、何の問題もなくスムーズに運んでいようとも、聖霊につながっていなければ、絶対に罪悪感を投影してしまうから、聖霊につながらなければ私は絶対に最善の言動ができない。
聖霊につながることができれば、罪悪感の投影をせずに相手に向かう(自分に向かう)ことができるので、その時には罪悪感を投影せずに純粋に相手に(自分に)向かうことができるので、誰にとっても最善の姿勢で向き合うことができる。」
それは一見、世界の結果とは関係のないことである。
その時には、一見、他の方法の方が良かったように見えることもあるかもしれないけれど、罪悪感を投影せずに選択した言動は、2次的な被害をもたらさない、というか、変な言い方ですが、罪悪感を投影して選んで行った言動のゆえに引き起こされる罪悪感の連鎖が生じないというか・・・。
聖霊とつながった状態で物事に(ということは状況に、相手に、自分に)向かう、ということが、すべての解決策なのだなあ、と感じています。
それは、今の私にはもちろんできていないのです。全然できていないのですが、そう思うようになってきました。
「この世界で上手く生きていけるように聖霊につながろうとするのではない」のです。

