押せない私

(入院中の話)

私は、ナースコールを押すのが苦手だ。

そもそも、人に何かを頼むというのが苦手で、いつもは自分でやってしまうのだが、今回ばかりは、自分でトイレに行けないため、頼らざるを得ない状況になってしまった。

夜中の2時半、尿意を感じながらナースコールのボタンと睨めっこして5分。

押すべきか、押さざるべきか。まだ少し我慢できる気もする。

看護師さんが忙しそうにしている姿が目に浮かぶ。

とてもじゃないが、そこに割り入ってお願いするなんてできっこない。

困った…

ナースコールのボタンをじっと見つめる。

私がおかしなことで悩んでいるのはわかっている。

さっさと押せばいいんだ、看護師さんだって、「遠慮せずに押してくださいね^ ^」って言ってくれたじゃないか。

なのに、なぜ押せない?

看護師さんに申し訳ないと思っていて、そんな自分の考えを正しいと思っていることに気がついた。

当たり前じゃないか、彼女たちはとても忙しいんだぞ。

夜中は特に人が少ないんだ。

でも、本当にそうだろうか?

本当に私の考えが正しいのだろうか?

正しいに決まっている、忙しい看護師さんに思いやりを持って何が悪い。

自分が正しいということを手放したくない気持ちに気づいたら、ふとテキスト第三章で読んだ、「Ⅶ.創造 対 自己イメージ」を思い出した。

そして、私が私を創ったと思っているということに気がつき、私が正しいって言うんだから、正しいに決まってると、信じきっていることに気がついた。

明らかに自我からのものだと気づき、心の奥を見てみようと思った時に、集中力が途切れた。

あ、そういえば尿意がなくなっている。

いやそれより集中して心の中を見て原因を見つめなきゃ。

これも、恐れからなんだから。

いや待てよ、それってまた単なる形式になってないか?

いつもここで迷うな、本当に見つめているのか、単なる形だけになっているのか、イマイチ区別がつかない

困ったな…

でも、こうやって区別がつかないと悩むこと自体、心を見ることに抵抗しているんだろうな

つまり、見たくないんだろうな、なんてことを考えていて、ふと、そうだ!聖霊の存在を忘れているではないか!と思い出した。

いつもこれだ、いつも忘れる。

そうだ、共に見るんだった…

と思った途端に、スッと気持ちが軽くなった。

え?これでおしまい?いや違うよね、これは単に、気持ちが軽くなっただけだと思う。

いまいち実感がわかないまま、再びナースコールのボタンを見つめた。

押すことに罪悪感はあるのか?いやそれ以前に、もう尿意がないから用がないんだった、と思っていると

斜め前のベッドのご婦人が「ドンガラガッシャン!」と何かを派手に落とした。

それをきっかけにみんな起き出し、隣のご婦人がテレビをつけ、向かいのご婦人はトイレに行った。

真夜中なのに一気に騒がしくなった部屋に、看護師さんが様子を見にきた

「どうかされましたか?」

「すみません、目覚まし時計が落ちたので拾ってもらえますか?」

さっき落ちたのは目覚まし時計だったのか⏰

カーテンをそっと開けると、看護師さんが時計に電池を入れていた。

「あのー、後でいいのでトイレに連れて行ってもらえますか?」

「はい、いいですよ^ ^」

ホッ

とりあえず解決だ。

(2022年5月 by アムロ)