一歩一歩

テキストからの引用です。

神の子がしていないことについて、彼を赦そうとする意欲をもちなさい。

(T-17.Ⅲ.1:5)

この意欲を持つまでの時間がだんだん短くなってきても、いまだにその狂気ぶりが怖すぎて、赦すことが難しいことがあります。

そのうちの一つについて、先日「ひとりごとフォーラム」に投稿しました。

本当は、そのことについては書くことも嫌というか、考えること自体が恐怖なのですが、放っておけばこのまま恐怖が続くばかり。向き合わねば……と、わずかずつなのですが取り組んできました。

他のレッスンよりもだいぶ消極的な取り組み方です。

目に見えている状況は相変わらず狂気じみているし、そのことに関わるようなことがあると、まともに行動できなくなってしまうのも以前と変わりがない(というか、ひどくなっている?)のですが、自分の内にあるその部分を見に行こうとする意欲を少しずつ持てているということが、私がその「問題」についての自我の嘘に対して疑問を持ち始めたということなのではないかと思うのです。

さらに言えば……

他の赦しのレッスンからは、だいぶ自我の言うことを疑うことを学んできていると思います。

少なくとも、このコースを始めたときとは明らかに感じ方が違うと思うことがあります。

それなのに、その「問題」だけは別物だとでもいうように、自分の恐怖感を利用して赦すことを妨げているみたいです。

でも、見ようという意欲をそのことに対して持てるようになってきているということは、もっと引いて見てみれば、他のことを赦してきて心が変わってきたからなんだと思うのです。

(「これを赦したら、心のこの部分が癒された」というようなものではないはずなので)

Q&A No.49

「神の子がしていないことについて、神の子を赦そうとする意欲をもちなさい。」(T-17.III.1:5) 狙撃犯が私たちの感情を生じさせる原因だったのではなく、私たちの間違った信念がそうした感情の原因だったのです。もし私たちが、どのような状況もすべてこのような観点から見ようという気持ちになれば、私たちは自我の嘘に対し疑問をもつようになってきます。そのときはじめて、私たちは別の見方を求めようとする地点に立っていることになります。

これを実践するのは、時に非常に難しいことです。訓練を要しますし、きわめて正直であることが求められます。けれどもこれ以外に、自分自身に多くの苦痛をもたらす思考体系に私たちを固着させている様々な信念に、私たちが触れる方法はありません。そうした苦痛は、自我の嘘を信じることから来ているのであり、外的状況(つまりこの場合は、その殺人事件)から来ているのではないのです。

【質問】No.49
どうすれば、ぞっとするような恐ろしい行為を赦せるのか

「聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説」p.9からの引用です。

それが私たちの永続的な体験となるまでには、この「聖霊のレッスン」のセクションが述べているような旅路を一歩一歩進んでいく必要があります。

「聖霊のレッスン / 「奇跡講座」テキスト第6章Vの解説」

時に非常に難しく、訓練を要し、きわめて正直であらねばならない。こんなことを成し遂げるためには、「長期的なプロセス」を一歩一歩たどっていくしかないのですね。

ああ、果てしない……。

(2022年7月 by Susan)