平安への障害を望む自分

つい最近の、自分の赦しの教室を書いています。

小5の娘が家に泣きながら帰ってきました。自転車に乗っていて転び、怪我をしたようです。膝の下と足の甲の擦り傷です。ちょっと大きめで少し深めの傷でした。最近はキズパワーパッドをよく使っていましたが、それでは対応できない傷だと思いました。普段使っている軟骨は量が少なくなっていました。以前上の子が処方された軟膏があり、それを塗りガーゼをあてました。なんだかひっかかる感覚、落ち着きのなさを感じながら、処置していました。

しばらくして、娘も落ち着きました。でも、私はなにか引っかかりを感じていました。「ん?ん?」と思いながら・・・ようやく塗った軟膏の成分を確認しました。なんと、、、抗生物質だけでなくステロイドも入っていました。急いで水で洗い流し、別の軟膏を塗り直しました。

なんてことをしてしまったんだ。という強烈な思いがわいてきました。広くて深めの擦り傷にステロイドなど最悪です。傷の治りを抑制し、免疫力を落としてしまいます。真逆の処置です。

「私の一番大切な存在に一番してはいけないことをしてしまった」というような思いがわいてきました。

まさに原初の分離の瞬間の再現のようで、非常に激しい罪悪感にさいなまれました。

T-19.IV.C.11:8-10の言葉が自然と思い浮かびました。

これを私から取り上げ、それを見て、代わりに判断してください。私がこれを、罪と死のしるしとして眺めたり、破壊のために用いたりすることがありませんように。どうすれば私がそれを平安への障害とせずに、あなたによって私のために使ってもらい、平安の到来を早められるかを、教えてください。

(T-19.IV.C.11:8-10)

その日からしばらく、その言葉とともに自分の心を見ていました。以下は、数日かけて心を見ていった時のことを、手短にまとめたものです。

これを私から取り上げ、

いやだ、渡したくない

それを見て、代わりに判断してください。

そんなのいやだ、恐ろしい。

私がこれを、罪と死のしるしとして眺めたり、破壊のために用いたりすることがありませんように。

私がこれを、罪と死のしるしとして眺めたり、破壊のために用いているということを受け入れざるを得ない。でもそれを認めたくない思いもある。

(罪悪感を抱いている自分の姿。罪と死のしるしとして眺め、破壊のために用いようとする自分の姿を、裁かずに眺める方向へ向かいます。罪悪感を抱く私が価値判断を使わないとは、私が罪悪感を抱いている姿を裁かずに眺めることのように思われました。)

どうすれば私がそれを平安への障害とせずに、

私がそれを平安への障害としてしまってるんだ。(ひどい悲しみが現れてきました)

あなたによって私のために使ってもらい、

そんなの無理だ、恐ろしすぎる、

平安の到来を早められるかを、教えてください。

それでも私は教えてもらいたい。

娘の怪我に対して感謝の思いがあらわれました。

涙があふれました。

罪悪感を投影していた相手が、私の罪悪感から私を救ってくれるのです。

涙があふれました。

素直に教えをこいたいという思いが生じました。

とても素直な気持ちで祈りました。

これを私から取り上げ、それを見て、代わりに判断してください。私がこれを、罪と死のしるしとして眺めたり、破壊のために用いたりすることがありませんように。どうすれば私がそれを平安への障害とせずに、あなたによって私のために使ってもらい、平安の到来を早められるかを、教えてください。

(T-19.IV.C.11:8-10

そして、平安への障害とは私を保護してくれるものだという思いが心にあるのがわかりました。平安への障害を望む自分を確認しました。平安の到来を望まない自分の思いを確認しました。

引っかかりを感じながら軟膏を塗ったときのことが思い出されました。

普段私は、どんな時も薬は必ず成分を確認してからでしか使いません。しかし、あの時はそれをしませんでした。その時は無意識のようでいて、実はわかっていながらやっていたというのが、見えてきました。間違った処置をしたのは確信犯だと気付きました。

罪という目的。

確信犯だということに気付くと同時に、醜悪さの極みのような感覚が浮上してきました。

醜悪さの極みを見たような感覚です。

その醜悪さから自分を守ろうとせず、醜悪さを解放しようとすると、その意味が消えました。

私はこのようなものを信じてきたのです。

嘆きもなく同情のようなものもありません。

その醜悪さもその醜悪さを信じることにも意味はないのです。

しかし、だからこそ、まだしっかり隠し持っているはずです。

それはまだ私の心の中にあります。

それに対する訂正もすでに私の心の中にあります。

どちらの声も聞ける立場にあります。

そのことをどこまで妥協することなく認めることができるか。

無理をせずに焦らず続けていきます。

あなたが私のようでありたいのなら、私たちが同じだと知っている私は、あなたを助けよう。あなたが違ったものになりたいのなら、あなたが心を変えるまで、私は待とう。私はあなたに教えることはできる。だが、私の教えを聞くという選択ができるのは、あなただけである。

(T-8.Ⅳ.6:3-5)

( 2022年7月 by pallaksch )