裁かずに見る
『思考の逆転』からの引用です。
このコースが提供してくれる助けというのは、別の言い方をすれば、私たちに選択の力を思い出させることであると言えます。
「何が問題なのかを認識する」(W-pI.79)ということは、最初の二つの選択肢の両方が見える視点に戻るということと同じだからです。(25ページの「解離」の説明も参照)
ですから、神の子を救うのは、神の子自身の選択なのです。
このコース自体も、聖霊も、私たちが選択できるようになるところまで導くだけです。選択自体は私たちがしなければなりません。
『思考の逆転』pp.100-101
「ただ見て、待つのみであり、判断はしない。」というところですが、「見る」というのは、自分の自我を見ることが必要ということです。聖霊とともに、裁かずに見る、ということです。
「待つ」というのは、神の子が、もう自我は手放したいという選択をするまで、静かに待っている、という意味になります。
『思考の逆転』p.114
「赦し」というのは、特定の何かに対する自分の反応について述べている場合が多いように思います。だから、「赦しが完了する」、つまり、ある特定の赦しの文脈に於いて選び直すということがおこったなら、その特定の何かに対する自分の反応は消えてしまいます。
しかし、赦しが完了する前提として、自分の心を裁かずに見るということをしています。それは、ある特定の何かにまつわる赦しが完了してはいないので、特定の何かに対する反応は消えてはいないのですが、聖霊と共に自分の反応を裁きなしに見ている状態です。
自分をこの世界にいる個人だと思っている限り、誰もが自我からくる思いを抱きます。そのことを直接どうこうしようとしては、その思いに実在性を与え、自分を裁くだけです。そこで、そのことを「ただ見ていく」という方向へ向かいます。それは一人ではできません。自我を教師にすれば、見るのではなくただ裁きます。聖霊を教師にすれば、裁くのではなくただ見ます。
「攻撃的な思いを抱いた」ことに気付き、「その思いを悪いものだと自分で評価している」ことに気付き、「悪い思いを抱く自分を駄目な奴だと裁いている」ことに気付く。例えばそのように、ただ心を見ていこうとしていると、攻撃的な思いが欠落した領域・裁きの欠落した領域から心を見ていることに気付きます。聖霊と共に見ることがどのようなことか、はっきり自覚できるようになります。
自我からくる思いが心にあるなら、「その思いを抱く自分を裁く思い」も必ずあります。
心を見ていくということは、攻撃的な思いを抱いた自分を裁こうとするのではなく、ただ見るという方向へ向かうこと、裁くこととは反対方向へ向かうことです。自分で自分を裁こうとするのに逆らって、ただ見ようとすることです。自分を裁こうとしている自分に気付いて、裁きを使わないことです。
赦しの実践というのは、ある日ある時の一つの出来事毎の一話完結のもの、ではないように思います。
どういったものが心の前面に浮上してくるかはコントロールできないように思います。自分の攻撃的な思いがひしひしと感じられるような時もあるし、恐れの感覚が前面に出てくる時もあるし、自分が踏み躙られたような感覚が前面に出てくる時もあるし、時空を超えた感覚が前面に感じられる時もあるし、裁きに取り憑かれているような感覚の時もあるし、裁きを超えた視線の中にいるような感覚の時もあるし・・・・。
それでも、とにかく自分で自分を評価するのではなく、つまり、自分で自分を裁こうとするのではなく、ただ見ようとする、ただ気付こうとする、という方向があることがわかっているなら、聖霊の呼びかけが聞こえているように思います。
真逆なのです。聖霊は意識的に呼び出すようなものではなく、どんな状況であっても常に共にあるのです。自分が裁きを使おうとするに応じて、自覚がなくなるだけなのです。
(2022年3月by pallaksch )

