100パーセント〇〇に満ちた声
「T-19.IV.平安への障害」の「i罪悪の魅力」を読むと、あまりに異様に思えるのですが、自我は聖霊の真逆だということを思えば頷けるように思います。
聖霊はあなたを完全無欠と知覚することから始める。
(T-6.II.5:1)
自我は完全無欠の正反対として我々を提示してくれているわけです。
覚えておくべきは、自我 – あらゆる人の自我 – というのは、100パーセント憎悪からできています。社会的に好感を持たれる人柄というものが、他の自我よりも良かったり、好ましかったりする自我をもっているということはないのです。イエスは次のように述べています。
「あなたが感じる感情の度合いは問題ではない。かすかな煩わしさも、激しい怒りを覆い隠すべールにほかならないことを、あなたも次第にはっきりと自覚するようになるだろう。」(W-pI.21.2:4-5)
最初は、この記述は奇異で、かなりの不安をかきたてるものに思えます。けれども最終的には、それはとても安心させてくれるものなのです。イエスの視点からは、私たちはみな同じである、ということですから。
私たちの一人一人が、100パーセント憎しみに満ちた自我の声を聞くことにするか、100パーセント愛に満ちた聖霊の声を聞くことにするかを選ぶことができます。私たちの一人一人が、この人生において発揮している性格的特徴とは関わりなく、「ヒトラー」でもあり「イエス」でもあるのです。私たちの想念や行動が「ヒトラー的」になっているときには、私たちは単に、怖くなって、聖霊の手を離し、再び間違った声を聞くという誤りを犯しただけなのです。これは、懲罰ではなく訂正を必要としている「間違い」なのです。そして幸いなことに、私たちの自我の残酷で狂った喚き声は、実相にはなんの影響も与えません。
【質問】No.110 (orig.#913) 浮上してくる怒りや攻撃の想念について
この醜く異様な自己像は幻想ではあっても、我々はそれを信じており、信じていることを忘れることで保護されています。
赦しのプロセスの中でそれに触れていくのですが、心の闇を深く掘り下げていくのも、聖霊とともになされていくものです。
相手への感情を感じ切ることを許可する方向であるなら、それは心の緊張をといていく方向、心の防衛をといていく方向となります。その方向は、兄弟に近づく方向でもあり、聖霊の光を受け入れる方向でもあると思います。
それゆえ、心を開いて闇を深く見つめるほど、光・愛の実在感は強まるように思います。反対に闇はその実在性が薄れるように思います。
だから、心の闇に潜っていく過程で、立ち止まってしまうのは、結局のところ、愛に対する恐れなのです。
緊張をといて心を見ていくつもりが、いつのまにか緊張を高めて恐れを招き入れてしまっていることが、私もしょっちゅうあります。
( 2022年7月 by pallaksch )

