過去の出来事

就寝中の夢に、小学校の同級生が出てきた。子供のころ以降会ったことはないのに、
大人になったその人と話をしていた。起きてからその人との出会いを思い出した。

その人は転校生で、空いていた私の隣の席に座った。何ともフレンドリーな感じの人で、席に着くなり私に話し掛けてきた。そのころの私の周りにはいないタイプの、穏やかな人だった。

その日の帰りだったと思うが、一人で歩いているとその人が声を掛けてきて、一緒に帰ろうと言った。そして別れ際に、今日、家に遊びに行っていいかと言うので、いいよと答えた。

家で待っていると、その人は飼い犬を連れてきた。私は子供のころ犬が怖くて、遠くにいても怯えるほどだったので、私はそれを伝えたのだと思う。その人はいったん帰って犬を自宅に置いて、また戻ってきてくれた。けれども、家の中に入って、さて何をして遊ぼうかというときに、私は気持ちが悪くなってしまい、その人に帰ってもらうことになってしまった。

よく覚えていないが、私は未熟さから、その人にちゃんと謝ったり、埋め合わせに、また遊ぶ約束をするなどということはできなかったと思う。関係がぎこちなくなってしまったのか、翌日からその人と口を利いた記憶はない。ただ、申し訳なかったという気持ちだけは残っていた。だから、すっかり忘れていたその人とその出来事を思い出したとき、何とも言えぬ罪悪感に襲われた。

1週間ぐらい、そのことを思い出しては、「ごめんなさい、ごめんなさい」と
思わず口に出してしまうほどだったので、自分でもちょっと異様な感じがした。

言い訳をしようと思えば、いくらでもできる。例えば、「そのころまで私の周りにいたのはきつい性格の人たちばかりだったので、あんなふうに屈託のない優しい感じの人に接して、逆に緊張してしまった」とか、「何も知らないうちから私に興味を持って一緒に遊びたいなどと思ってくれる人がいるわけがないと思っていたので、驚いてしまった」とか。

でも私は、『奇跡講座』の学習者だ。自我的な解釈は一つ一つ教室にしていこうと思った。これらの言い訳は、すべて自己防衛につながっているのだから。

申し訳ないと苦しむ気持ちも罪悪感の投影で、何十年もたってから夢に現れたことも
赦す機会が再び来ただけのことなのかもしれない。私はその出来事を利用して、動揺することを選択し続けているのだろう。

ひょっとしたら、その人の純粋な屈託のなさの奥に神の愛の反映みたいなものが感じ取れて、私はそれに圧倒され、怯えて具合が悪くなったのかもしれないとも思うけれど、それもコースの真理を利用した言い訳のようで、誤った信念を隠そうとしていることのように思える。

何がどうなってこういう体験をしたのかとか、何が最善だったのかとかは、私には分からないんだった。だから、私はただ平安を受け入れないようにしているのだなと認めて、聖霊に差し出した。

そして、申し訳なかったと謝る気持ちと、罪悪感から自分を責める気持ちを
ごっちゃにしてはいけないなと思った。


(2022年11月 by Susan)