デジャヴュ

おとといは、私の予想どおりの一日だった。
というよりはむしろ、まる一日がデジャヴュであったかのような日だった。

世界の唯一の目的は罪悪の実在性を証明することである。この世界の想念や行為や感情にはこれ以外の動機はない。そうしたものはみな、それらが代弁し表象する体系に信憑性を与えるために、あなたがあらかじめ信じるつもりで召喚した証人たちである。

(T-27.Ⅰ.6:4-6)

ホントにそのとおりだと思った。

非難の最中に聖霊を思い出し、赦せるよう助けを求めてもどうにもならず、自分が操り人形になったように感じた。

困ったことに私のその非難は、社会的に見て「正しい」ことで、周りに承認され、しかも身近にサポーターまでいるので、「間違ったことはしていないとは思うが、このやり方はまずいに違いない」と思っても、なおさら軌道修正ができなくなるのだ。「正しい」ことをしていても、それが周りに承認されていても、表現の仕方が間違っているので、気分が悪くなったのかもしれない。気分が悪かったが赦さずに就寝した。

私が非難や怒りの感情を持ち続けたとしても、罪深いということにはならないのだ。
ただ自分自身が天国を思い出せないようにするだけのことで……。

それを罪と呼ばずに、狂気と呼びなさい。
それは確かに狂気であったし、今も狂気であり続けているからである。
そこに罪悪感を投入してはならない。
なぜなら、罪悪感は、それが実相の中で達成されたと示唆するからである。
そして何よりもまず、それを恐れてはならない。

(T-18.Ⅰ.6:7-9)

ああ、そうか。私が私の考えや、私がしたことや、そこから生まれた感情を嫌うのは、
それが何かパーフェクトなものを損なうように感じているからなのか。

私のしたことは真の愛には何の影響も及ぼしていないというのに、私は「小さな狂った考え」に翻弄されたがっている。

一日置いて、ようやく聖霊を選び直すことができた。

でもしばらくは、また同じことで同じ感情になるに違いない。そうしたら、また聖霊を選び直すだけだ。そうやって、少しずつ心を変えていくしかない。