〈要チャレ №1〉の要約発表&感想

〈要チャレ №1〉【質問】No.99 他者からの攻撃と自分自身による攻撃との関係

【今回チャレンジされた方々の要約】

たくさんのご参加ありがとうございました(^O^)/

あなたから攻撃されたと私が思う時、それが密かに意味しているのは、私は心の中で最初にあなたを攻撃したということ。

自我と同一化した心は相対立するものからなる全体の半分を意識的に経験する。
そしてその半分とは自我が差異や攻撃を実在させようとして投影によって切り離したものです。

私を攻撃するあなたについての解釈も、加害者としての私についての解釈も真実ではない。
聖霊はあなたと私の2つのどちらの半分も同じであると認識して、そして両方の解釈を虚偽として退ける。
つまり私と兄弟はひとつであると認識できるように私たちを助けます。

攻撃する自我を構成する「相対立するものから成る『全体』」そのものが、幻想だということです。

REVIVER

私たちは二元的な思考をする自我と同一化しているため、私たちの外的状況についての解釈の裏には、それとは反対の信念が潜んでいる。

自分が他者から攻撃されたと思うとき、私はその前に自分が相手を攻撃したと信じていて、その責任を取らずに済むように、その想念を相手に投影している。さらに、相手からの攻撃には正当性がないと怒るとき、私は自分自身が攻撃者だと信じていることからくる「無意識の罪悪感」を怒りの奥に埋没させようとしているのだ。

聖霊は、兄弟と私はひとつであり、「相対立するものからなる『全体』」そのものが幻想であると私たちが認識できるように助けてくれる。

JO1

ここでの精神力動は「投影」であり、それは、最初に自分自身の中に攻撃を見ていたのでなければ、相手の中に攻撃を見ることはできない、ということである。そしてこの「投影」は、「私自身が攻撃者であるという、無意識の罪悪感」に対する防衛でもある。
これは、自我の思考体系の逆説的な特徴であり、『奇跡講座』の中の妥協のない教えの一つであり、仮に原則としては受け入れられても、実践においてはきわめて受け入れ難いものである。
しかしこれらは、分離や差異や攻撃が実在するという偽りの前提に基づくものであり、聖霊の視点からは、全て幻想である。
そして幻想からは、実在するものや真実のものが生じることはあり得ない。

K.dash

自我の思考体系は二元的なので、二つの反対の信念が伴われる。1つ目の半分は「私は心の中で最初にあなたを攻撃したのだから、あなたからの攻撃には正当性があるとわかっている」ということである。もう半分は「無意識の罪悪感」に対する防衛として、あなたからの攻撃が「正当な理由がない」と感じられるから、あなたを攻撃するということである。聖霊の視点からは、自我によるどちらの解釈も真実ではないので、どちらの半分も同じであり、聖霊は両方の解釈を虚偽として退ける。「攻撃する自我」を構成する「相対立するものからなる『全体』そのものが幻想なので、そこから実在するものや真実のものが生じることはない。

Sakurah

自我の思考は二元的であり、意識的な経験は、相対する「半分」であり、その半分は、投影により切り離したもので、二つが同一であるとは認識していない。
 「投影」は、最初に自分の中に攻撃を見なければ、他者の中に攻撃を見ることはできない。
 他者からの攻撃に「正当性がない」と怒ることは、「無意識の罪悪感」に対する防衛であり、喧しく抗議する対象は、私の秘密の信念の投影であり、自我の逆説的特徴で、例外はない。
 聖霊からは、どちらも真実ではなく、私たちはひとつであると認識できる様助けてくれる。相対する「全体」は幻想であり、実在するものや真実が生じることはあり得ない。

リリー

自我の思考体系は二元的で、私たちが意識的に経験するものは、相対するものからなる全体の半分にすぎない。それは自我が差異や攻撃を実在させようと投影によって切り離したものであり実際は同じもの。この投影によって、形而上学的には相手はただの攻撃の想念の投影としてのみ存在している。それは自分の攻撃の想念の責任を取らなくてすむようにするため。投影に例外はなく、妥協ないこの教えがコースの学びを難しくしている。聖霊は最初にどちらの半分も同じと見れるように私たちを助け、その後両方を虚偽として退ける。分離や差異や攻撃は偽りであり全体そのものが幻想なので、そこから実在や真実のものが生じることはあり得ないから。

yukimi

自我の思考体系は二元的な体系であるため、相対立するものがあるという信念を必然的に含む。自我と同一化した心である私たちが意識的に経験するものは、全て「相対立するものから成る『全体』」の半分である。それは自我が差異や攻撃を実在させようと、自己譴責を切り離して外的状況に投影したものであるため、それら二つの半分が実際には同じものだと認識していない私たちは、この「投影」という精神力動を受け入れ難く感じる。聖霊の視点からは、自我によるこれら二つの解釈のどちらも虚偽である。なぜなら「攻撃する自我」を構成する「相対立するものから成る『全体』」そのものが、分離や差異が実在するという偽りを前提とした幻想だから。

ナイト

     

【JACIMフォーラムに投稿された要約】

以下は、2023年2月に、同一の課題で行われたJACIMフォーラムの「要約 読書会」に投稿された要約です。

初めての「要約 読書会」だったこともあり、参加者の方々は要約そのものに慣れていない中、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら、なんとか300字以内に収めたようです。

いずれにしても、要約読書会においては、ワプニック博士が何を伝えようとしているかに耳を澄ませ、教材をしっかり読むという過程そのものが重要とされます。ですから、これらの要約も、「どれが正解か」という観点からではなく、それぞれの方々によるそうした努力の足跡として、ご覧になってみてください。

私達が知覚するのは一つのものを分けたその半分である。

知覚は相対立する概念の上に成り立つ。善と悪・光と闇・前と後など。

それらは自我が「投影」によって切り離したものだが、切り離されていても実際には同じものだ。

この精神力動によると、何かを知覚するためには前もって同じ想念を外方向に向けて持たねばならない。このことは常に真実であり例外はない。

ならば、攻撃されていると知覚したならそれは前もって自分が攻撃したということ以外あり得ない。全体の半分しか知覚しないので被害者だと思えるだけなのだ。 

これらの知覚は、全て存在もしない自我によるトリックであり、聖霊としてはそれらをただ虚偽として優しく退けるだけである。

DTA1973

「投影」という精神力動によれば、私は、最初に自分自身の中に攻撃を見ていたのでなければ、あなたの中に攻撃を見ることはできない。外的状況への解釈には、必ず反対のものが伴うという自我の思考体系と、私は同一化している。形而上学的に言えば眼前の対象は私の攻撃の想念の投影としてのみ存在している。私は罪を犯したので処罰や反撃を受けるだろうと信じ、自分を責めているし恐れている、その投影だ。抑圧し投影したため忘れているが、相手が私を攻撃しているその姿は、実はまるで陰のように私の動きと連動している。つまり、相手が私に怒りをぶつけ攻撃をしている姿は、私自身なのだ。

peko

私達は想念として常に与えて受け取ることをしていて、それを無意識下では知っています。私達が意識的に経験することは自己概念の間で行われることで、自我を選択した結果に投影される、二元性から生じる象徴です。自我を選択するとは神から分離したと信じること。その信念から生じる攻撃の想念の責任を自分が取らなくて済むように、責任を押し付けるためのものを見ています。それらに対し怒りを持つことで、自分が攻撃されたので反撃することが正当化できると信じています。しかし、神だけが実在し、私達は神と一つです。攻撃に意味があると信じている間はそれを思い出せません。聖霊は、攻撃する両者の解釈は共に虚偽だと退け、赦しを促します。

ひょうたん

心が二元的思考体系の自我と同一化して解釈をすれば、必ず反対のものも含みます。

自我が攻撃を実在させようとして投影により切り離した相対立するものから成る全体の半分が、意識的経験です。

私達は両者を同じと認識しないので、相手に自分の攻撃を見て責任を回避します。

他者からの攻撃に正当性がないと怒ることは、自分は攻撃者で処罰や反撃に値するという

自己譴責に関連する無意識の罪悪感に対する防衛です。

他者への抗議の対象は、自分について密かに信じていることの投影であることに例外はなく、

受け入れるのは難しいですが、聖霊は他者と私は一つであると認識できるように私達を助け、

偽りの前提に基づく両者の解釈を虚偽として退けます

Susan

自我と同一化した心が外側に与える解釈は、反対の信念が伴われている。
なぜなら、自我の思考は二元的だからである。

私が意識的に経験するものは、何であれ、「相対立するものから成る『全体』」の半分にすぎない。
その半分とは、自我が差異や攻撃を実在させようとして、投影によって切り離したものである。

「投影」という精神力動によれば、私は、最初に心の中に攻撃を見ていたのでなければ、あなたの中に攻撃を見ることはできない、ということになる。

聖霊の視点からは、自我のどちらの解釈も(あなたについての解釈も私についての解釈も)、真実ではない。
「攻撃する自我」を構成する「相対立するものから成る『全体』」そのものが幻想である。

kiseki

自我の思考体系では、私が認識できる経験は半分に限定されており、意識下には常にこれに相反するもう半分が隠されている。

つまり、私があなたから不当な攻撃を受けたと認識している時は、意識下では私が最初に神への攻撃を見たのであり、神からの処罰や反撃を受けて当然だと言う自己譴責にまつわる罪悪感を抱いている。自我はこの攻撃や罪悪感の想念を実在させるために、これをあなたに投影して、あなたの中に攻撃や罪を見ることで、私がこれらの想念の責任を取らなくて済むようにしている。

一方聖霊の思考体系では、あなたと私についてのこのどちらの解釈も虚偽(幻想)であるとみなされ、あなたも私も分離や差異はなく一つであると認識される。

クマ

分裂した心の内側には正反対の機能を表象する自我と聖霊に分割された二つの自己がある。
その心の葛藤する想念が延長され、実際は同じ機能をもつ私とあなたが異なる機能をもつ分離した存在として知覚される。

私にとってあなたは自分の中の罪の投影先としてのみ存在する。

あなたの攻撃には正当性がないという知覚自体が、
私は分離の罪を犯した罪人だという信念があり、
個別性を維持しつつその罪をあなたに投影して処罰を逃れ、そのことを否認して忘れたことを意味している。

この経験と矛盾した解釈が実践において受け入れ難い教えとしている。

聖霊は私とあなたがひとつであると認識させ、分離の実在を前提として生じたすべてを虚偽として退ける。

yukihide

偽りの前提に基づく攻撃の想念を信じる者は、
罪を信じ、罪悪感を感じ、罰から逃れようとする。

攻撃の想念は自我の思考体系の二元・対立を遺伝子とし、
結果レベルで分裂し、
攻撃する側とされる側が生まれ差異を見る。

人は自分と異なる者を攻撃する。

形而上学的には、
相手は自分の攻撃の想念の投影で存在しているので、
攻撃され怒りを感じた時、
相手に投影して自分から消えたと思った攻撃の想念が、
自分の中にもあることを実践においても認めることができれば、

聖霊は、
攻撃する側もされる側も、
自我の思考体系を信じてる想念としてどちらも同じと言い、

更に、
攻撃できる/され得るという攻撃の想念は、
自我の思考体系が幻想ゆえ虚偽として退ける。

レモンテイー

【感想】

〈要チャレ №1〉に参加された方で、感想を述べたい方は、以下のコメント欄に11月9日までに投稿してください。

11月10日に、このページの続きとして、公開します。(承認制なので、投稿はすぐにはこのページに反映されません。また、新着記事としての「お知らせ」は出ませんので、関心のある方は11月10日以降にこのページを覗いてみるようにしてください。)

なお、感想の投稿は一回のみとさせていただきます。

**次回の〈要チャレ№2〉は、11月10日に開始します。**