何についての助け?
落ち着いて対応する余裕がない中で何かまずいことが起きると、つい外側に解決策を探そうとしてしまう。それは当然のごとくうまくいかず、それでも赦すことに切り替えられない場合、「自分が存在しているから、こんなことになっているのだ」と、自分のことを咎めがちだ。
最近起きていることに関しても同じで、内側を見てみようと努めると、自分から自我を選んだことを見ないようにするために、自己概念Bに原因があるように見せかけているように思える。
問題の在りかがどこにあるのかを探って解決するように求められた場合、形の上ではそれをしながらも、内側では何も誰も咎めずにいたいのに・・・余裕がないときは、自動的にこの世の解決策を使おうとする。そうすれば、それが攻撃として返ってくるのを何度も体験しているのに、やめられない。
「私の思いは別として、社会人としてそれは正しい」とか、「人として、その行為はどうよ」とか思ってしまう。「正しさ」を持ち出せば守られるという自我の法則にのっとって生きることにあまりにも慣れているのだろう。追い詰められれば追い詰められるほど、自我の法則に従おうとしてしまう。
心の中で、「聖霊、助けて!」と叫ぶが・・・
「ちょっと待てよ。私は何について助けを求めているんだ?」と立ち止まる。すると、ここでも自分の間違いに気づく。
赦すことのために助けを求めたいのに、いつの間にか世界を変えるための助けを求める声にすり替わっている!
「私が何を信じようと、何が起きているように見えようと、神の愛や平安を私から奪う力はない」と確信していられるようにと、あらためて助けを求める。そのことが分かっているということが、深刻に捉えないということなのだろうし、微笑んでいられるという状態なのだろうから。
(2023年8月 by Susan)

