神との喧嘩
「一人相撲」という言葉があるが、赦しの実践をしている中で、私が神に対してやっていることは「一人相撲」ならぬ「一人喧嘩」なんだと思い至った。
目の前の相手に向けている怒りは、全て神に対して私が抱いている怒りの投影にすぎないのであり、その目の前の相手に対する怒りの正当性は、全て神に対して私が抱いている怒りの正当性に他ならない。この怒りが正しいと私が主張している限り、私はこの怒りを手放そうとは決してしない。
でもこれは分離の信念に基づいているため、私はこの自己主張を続ける限り、孤独で愛から除外された知覚が必ずセットになってついて来る。私は神から分離することにして、それで神の逆鱗に触れたと信じ込み、神からの攻撃を恐れると同時に、神に対して勝手に怒りを抱くことにしたのである。
そして、私はこの怒りには正当性があると言い張る。私は60年近くの人生で、どれだけ神に対してこの自己主張を頑なに繰り返し言い続けて来たのだろうか? 孤独感の際に追い詰められるまで、自分のこの自己主張を決して曲げようとはしなかった私のこの頑なさが、今ひしひしと身に染みて感じられる。
全ては私の分離の決断だったのだ。しかもこれは、分離は起きたという私の勝手な信念なのであり、神はこれを怒るどころか全く知りもしないのである。相手のいない喧嘩を一人でおこして、その相手に勝手に怒り続けているようなものだと思った。私のこの主張は正しいと言い張っている自分の愚かさを、今こそしっかりと認識したい。自分の間違いをしっかりと認めよう。そうすることで、私は初めてこの間違いを心から手放したいと思えるようになるのだから。
神に対して勝手に喧嘩をしかけて怒り、絶対自分は悪くないと言い続けてきた人生だった。だから、いつ神から攻撃されるのかと、ずっと脅え続けてきた人生だった。でもそんな喧嘩相手は初めからいなかったのだ。ただ私が分離を実在化したかっただけなのだ。でも、私は神から分離など決してできない存在だったのだ。私の認識が間違っていたのだ。この間違いをしっかりと認めよう。自分の間違いを認めてこそ、私は初めて相手と心から和解したいと望めるのだから。
そして、その和解する相手は、端から怒ってなどいないのだから、私が望みさえすれば仲直りはいとも簡単なのだ。私の神の子としての真のアイデンティに心から感謝したいと思う。
(2024年2月 by クマ)

